孫咨(そんし)

【姓名】 孫咨(そんし) 【あざな】 ?

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 ?~256年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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孫皎(そんこう)の息子

父は孫皎だが、母は不詳。孫胤(そんいん)と孫晞(そんき)は兄で、孫弥(そんび)と孫儀(そんぎ)は弟。

孫咨は将軍となって羽林督(うりんとく)を務め、侯(こう)にも封ぜられた。

256年に孫峻(そんしゅん)が亡くなると、実権を引き継いだ孫綝(そんりん)と呂拠(りょきょ)や滕胤(とういん)が対立した。

孫綝が侍中(じちゅう)・左将軍(さしょうぐん)の華融(かゆう)と中書丞(ちゅうしょじょう)の丁晏(ていあん)を滕胤のもとへ遣わし、呂拠を捕縛するよう命じたうえ、大司馬(だいしば)に任ぜられた滕胤に、任地の武昌(ぶしょう)へ向かうよう伝えさせた。

滕胤は自身に災禍が迫っていると感じ、そのまま華融と丁晏を軟禁すると、兵士をまとめて守りを固めさせた。

さらに滕胤は典軍(てんぐん)の楊崇(ようすう)と将軍の孫咨を呼び寄せると、「孫綝が反乱を起こした」と告げ、華融らに強制して孫綝のやり方に反対する手紙を書かせた。

しかし孫綝はそれらの手紙を無視して、「滕胤が謀反を起こした」と上表する。そして将軍の劉丞(りゅうじょう)に爵位を約束し、歩騎をひきいて滕胤を激しく攻め立てるよう命じた。

すると滕胤は再び華融らを脅し、偽の詔(みことのり)を書かせて軍勢を動かそうとした。華融ら(この中に孫咨も含むと思われる)は滕胤の言うことを聞かなかったため、皆殺しにされてしまった。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

この孫咨もそうですが、孫皎の5人の息子たちは終わりがパッとしません(なお、孫弥だけは終わりがよくわからず)。

孫皎は文武に秀でた人物で、219年に関羽(かんう)らが捕らえられた荊州(けいしゅう)の平定戦でも活躍しました。

吉川『三国志』や『三国志演義』では、呂蒙(りょもう)ら関羽の死に関わった人たちは、祟(たた)りを思わせる死に方をしたことになっています。

孫皎については言及がないようですが、実は彼も219年のうちに亡くなっているのです。

すべて祟りでくくってしまうのはどうなのか、とは思いますけど……。創作するならこうなるよね、とも思います。

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