荀いく(じゅんいく)

【姓名】 荀イク(じゅんいく) 【あざな】 文若(ぶんじゃく)

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)潁陰県(えいいんけん)

【生没】 163~212年(50歳)

【吉川】 第042話で初登場。
【演義】 第010回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・荀イク伝』あり。

適切な助言で曹操(そうそう)の勢力拡大に大きく貢献するも、漢朝(かんちょう)を巡る思惑の違いから対立

父は荀緄(じゅんこん)だが、母は不詳。荀淑(じゅんしゅく)は祖父にあたる。荀倹(じゅんけん)は伯父。荀靖(じゅんせい)・荀トウ(じゅんとう。壽+灬)・荀詵(じゅんしん)・荀爽(じゅんそう)・荀粛(じゅんしゅく)・荀旉(じゅんふ)は、みな叔父。

荀衍(じゅんえん)は兄だが、荀シン(じゅんしん。言+甚)は兄なのか弟なのかイマイチはっきりしない。このほかにふたりの兄(名は不詳)がいたことがうかがえる。

息子の荀ウン(じゅんうん。忄+軍)は跡継ぎで、荀俁(じゅんぐ)・荀詵(叔父と同名だが別人)・荀ギ(じゅんぎ。豈+頁)・荀粲(じゅんさん)も同じく息子。このほかにもうふたり息子(名は不詳)がいたようだ。陳羣(ちんぐん)に嫁いだ娘もいた。

荀悦(じゅんえつ)は従父兄。荀攸(じゅんゆう)は従子(おい)にあたるが、荀イクより6歳年長だった。

荀イクの家は当代有数の名門で、彼自身も容姿端麗な偉丈夫(いじょうふ)だったという。まだ若かったころ、何顒(かぎょう)は彼を特に評価し、「王者を補佐する才能を持っている」と言った。

189年、荀イクは27歳で孝廉(こうれん)に推挙され「守宮令(しゅきゅうれい)」に任ぜられる。この年に董卓(とうたく)の乱が起こったため、願い出て「亢父県令(こうほけんのれい)」に転任したが、ほどなく官職を捨てて帰郷した。

荀イクは郷里の長老たちを説き、速やかにこの地を離れ乱を避けるよう勧めたものの、みな決断がつかない。

このころ、潁川出身で冀州牧(きしゅうぼく)の韓馥(かんふく)が、騎兵を差し向けて郷里の者を迎えに来た。結局、荀イクだけが一族を引き連れ冀州へ向かう。ところが彼らが到着すると、すでに袁紹(えんしょう)が韓馥を退け地盤を奪っていた。

それでも袁紹は荀イクを上賓の礼をもって待遇。荀イクの兄弟の荀シン、同郡出身の辛評(しんぴょう)や郭図(かくと)は袁紹の任用を受ける。しかし荀イクは、袁紹が大事を成し遂げる人物ではないと見ていた。

そこで191年、「奮武将軍(ふんぶしょうぐん)」として東郡(とうぐん)にいた曹操のもとに身を寄せる。曹操は大喜びで「わが子房(しぼう。漢の高祖〈こうそ〉に仕えた張良〈ちょうりょう〉のあざな)である」と言い、荀イクを「司馬(しば)」に任じた。

翌192年、曹操は「兗州牧(えんしゅうのぼく)」となり、196年には「鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)」となったが、荀イクはいつも「司馬」として付き従った。

その間の194年、曹操は徐州(じょしゅう)の陶謙(とうけん)討伐に向かい、荀イクは留守中のことを一任される。ここで張邈(ちょうばく)と陳宮(ちんきゅう)らが謀反を起こし、呂布(りょふ)を兗州へ迎え入れた。

荀イクは、東郡太守(とうぐんたいしゅ)の夏侯惇(かこうとん)や程イク(ていいく。日+立)と力を合わせ、鄄城(けんじょう)・范(はん)・東阿(とうあ)の3県を死守する。曹操が徐州から帰還すると濮陽(ぼくよう)の呂布を撃破。呂布は東へ逃走した。

陶謙は194年のうちに亡くなり、曹操は再び徐州攻略をもくろむ。先に徐州を取ったうえで引き返して呂布にぶつかり、兗州を平定しようと考えた。このとき荀イクは根拠地である兗州の重要性を説き、曹操も徐州より兗州の平定を優先することにした。

196年、曹操が汝南(じょなん)・潁川両郡の黄巾賊(こうきんぞく)を討伐。

またこの年、長安(ちょうあん)を出て各地を放浪していた献帝(けんてい)が洛陽(らくよう)への還幸を果たす。曹操が献帝を迎えて許(きょ)への遷都を考えると、荀イクはその計画を強く推した。

こうして遷都が実現した後、献帝は曹操を「大将軍(だいしょうぐん)」に、荀イクを「(漢の)侍中(じちゅう)・守尚書令(しゅしょうしょれい)」に、それぞれ任じた。

ほどなく曹操は「大将軍」の位を袁紹に譲り、自身は「司空(しくう)・行車騎将軍事(こうしゃきしょうぐんじ)」となった。

荀イクは中枢にいながら、いつも厳正な態度を保つ。曹操は出征中でも、軍事や国事に関するすべてのことを彼に相談した。

さらに荀イクは、荀攸・鍾繇(しょうよう)・戯志才(ぎしさい)・郭嘉(かくか)・厳象(げんしょう)・韋康(いこう)らを推薦。のちに「揚州刺史(ようしゅうのしし)」となった厳象と、「涼州刺史(りょうしゅうのしし)」となった韋康は敗死したものの、ほかはみな適任だったという。

198年、曹操が安衆(あんしゅう)で張繡(ちょうしゅう)と劉表(りゅうひょう)の連合軍を撃破。この年のうちに下邳(かひ)で呂布を攻め破って処刑し、いよいよ袁紹と対峙(たいじ)することになる。

200年、曹操は官渡(かんと)で袁紹軍の包囲を受け続け、兵糧が底を突きそうになった。曹操は荀イクに手紙を送り、いったん許へ引き返して袁紹をおびき寄せるという考えを伝える。だが、荀イクはこうした弱気な考えを諫め、今こそ奇策を用いる時機だと述べて思いとどまらせた。

曹操は袁紹の別営(烏巣〈うそう〉)に奇襲を仕掛け、守将の淳于瓊(じゅんうけい)らを斬り殺す。これにより袁紹は退却を余儀なくされた。

このころ袁紹軍では内部のごたごたが続出。許攸(きょゆう)は家族が法律に違反したため妻子を捕らえられたが、これに腹を立てて曹操のもとに奔った。顔良(がんりょう)と文醜(ぶんしゅう)は戦死し、袁紹に諫言して怒りを買った田豊(でんほう)は処刑される。こういったことは、すべて荀イクが事前に予想した通りの展開だった。

翌201年、曹操は袁紹が再起しない間に劉表を討伐したいと考える。荀イクはあくまで先に袁紹を討伐するよう勧め、曹操は再び黄河(こうが)のほとりに布陣した。

翌202年、袁紹が病死すると、曹操は軍勢を進めて袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)を攻撃。

ところが、ここで袁紹の甥の高幹(こうかん)や郭援(かくえん)が黄河の東部へ侵攻。この動きを受け関右(かんゆう。関中〈かんちゅう〉)が激しく動揺する。このとき鍾繇が馬騰(ばとう)らとともに討伐にあたり、これを撃破した。

翌203年、曹操によって前後の功績が採り上げられ、荀イクは「万歳亭侯(ばんざいていこう)」に封ぜられる。

翌204年、曹操は鄴(ぎょう)を陥し「冀州牧」となる。荀イクや荀攸も高官となったが、ふたりとも謙虚で節倹に努め、俸給や恩賞は親類や知人に分け与え、家に余分の財産を残さなかった。

207年、荀イクは1千戸の加増を受け、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は2千戸となった。

翌208年、曹操は劉表討伐に乗り出そうとし、荀イクに策を尋ねる。荀イクは、公然と宛(えん)と葉(しょう)へ出兵する一方、間道づたいに軽装の兵を進め、敵の不意を突くのがよいと勧めた。

曹操が出征したころちょうど劉表が病死。そのまま新野(しんや)まで赴くと、劉表の息子の劉ソウ(りゅうそう。王+宗)は戦わずに降伏した。

212年、董昭(とうしょう)らは曹操の爵位を進めて「国公(こっこう)」とし、九錫(きゅうせき)の礼物を備え、その際立った勲功を顕彰すべきだと考える。

しかし、彼らからひそかに相談を受けた荀イクは反対した。このことを伝え聞くと、曹操は内心穏やかでいられなくなった。

この年、孫権(そんけん)討伐が行われる。曹操の上表により、荀イクは譙(しょう)で軍の慰労をするため派遣された。

そのまま荀イクは軍中に引き留められ、「侍中・光禄大夫(こうろくたいふ)」として「節(せつ。使者のしるし)」を持ち、丞相(じょうしょう。曹操)の軍事に参与した。

こうして曹操の軍勢が濡須(じゅしゅ)に着いたとき、荀イクは病を得て寿春(じゅしゅん)に残り、憂悶(ゆうもん)のうちに死去。一説には自殺したともいう。

このとき荀イクは50歳だったが、「敬侯(けいこう)」と諡(おくりな)され息子の荀ウンが跡を継いだ。

のち265年、荀イクは曹奐(そうかん)から「太尉(たいい)」の官位を追贈された。

管理人「かぶらがわ」より

本伝に挙げられていた荀イクの推薦した人物(荀攸・鍾繇・戯志才・郭嘉・厳象・韋康)について、さらに裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『荀イク別伝』には、陳羣・司馬懿(しばい)・郗慮(ちりょ)・華歆(かきん)・王朗(おうろう)・荀悦・杜襲(としゅう)・辛毗(しんぴ)・趙儼(ちょうげん)の名も挙げられていました。まさに「名士のネットワーク恐るべし」といったところでしょうか。

また、裴松之注に引く孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』には荀イクの最期にまつわる話がありました。

「曹操は荀イクに食べ物を贈ったが、器を開けてみると中は空っぽだった。そのため荀イクは(曹操の意を悟り、)毒薬を飲んで自殺した」というもの。これは『演義』(第61回)や『吉川版』(第193話)でも使われていました。

荀イクと曹操が持っていた漢室観には、当初から埋めがたい差があったと思います。どちらかが折れればよいという簡単な問題ではないため、いずれかの時点で対立が表面化するのは必至だったのでしょうね。

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