劉類(りゅうるい)

【姓名】 劉類(りゅうるい) 【あざな】 ?

【原籍】 高陽郡(こうようぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

監視に付けた者を別人に監視させる

父母ともに不詳。

劉類は各地の「刺史(しし)」や「太守(たいしゅ)」を歴任したが、その統治は非常に過酷なものだった。だが、彼自身は上役との人間関係をうまく処理したため、世間から追放されることはなかった。そして、曹芳(そうほう)の嘉平(かへい)年間(249~254年)に「弘農太守(こうのうのたいしゅ)」となる。

劉類は200余人いる部下たちに休暇を与えず、いつも不急の仕事に使った。さらに彼らに過失があったときは軽重の区別をつけず、髪の毛を引き抜いたり、杖でめった打ちにするといったことを繰り返した。また人を使い、地面を掘らせて銭を探させたので、あちこちの市場は穴だらけになってしまった。

巡察に出る際は、督郵(とくゆう。官名)を通じて属官に命じ、無理にあいさつに来る必要はないと伝えさせておきながら、一方で本当にあいさつに来なかった者を覚えておき、後からそれらの者を陥れるのが常だった。

劉類は人を信用しない性質で、上級の役人を外へ遣るたび、これに下級の役人を付けて監視させた。こういう具合に、昼間は土塀の隙間から様子をうかがわせ、夜間は幹(かん。小役人)を使って部下の行動を調べさせたものの、その幹がまた信用できないとして、別に鈴下(れいか。使い走り)や奴婢(ぬひ)も遣り、それらの報告を照らし合わせて検証したほどだった。

古い慣習では、民が行政の長を誹謗(ひぼう)する場合の「三不肯(さんふこう。使ってはいけない3つの言葉。『遷〈降級〉』『免〈免職〉』『死〈死刑〉』)」があった。劉類に苦しめられた弘農の官民は、彼の家の門に「劉府君(太守の劉類)には三不肯がある」と書き付ける。それでも劉類は自身の態度を改めることはできなかった。

254年?、安東将軍(あんとうしょうぐん)の司馬昭(しばしょう)が西征した折、弘農を通る。このとき弘農の人々は、劉類がもうろくして郡を治める能力がないと上言。劉類は中央へ召し還され「五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)」に転じたという。その後の劉類については記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・梁習伝〈りょうしゅうでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』(苛吏伝〈かりでん〉)によるもの。

劉類の話は創作なら笑えるところもあるのでしょうけど、事実だとすればひどいとしか言えません。彼がこうした暴挙を繰り返すようになったのはなぜなのか? そのあたりの理由がうかがえる記事も見たかったですね。

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