陸胤(りくいん)

【姓名】 陸胤(りくいん) 【あざな】 敬宗(けいそう)

【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・陸凱伝(りくかいでん)』に付された「陸胤伝」あり。

拷問を受けても孫和(そんか)支持の態度を貫く

父母ともに不詳。陸凱は兄。息子の陸式(りくしょく)は跡継ぎ。陸遜(りくそん)は同族。

陸胤が「御史(ぎょし)・尚書選曹郎(しょうしょせんそうろう)」を務めていたとき、皇太子(こうたいし。242~250年)の孫和は彼の名声を聞き特別に礼遇した。

やがて全寄(ぜんき)や楊竺(ようじく)が魯王(ろおう。242~250年)の孫霸(そんは)に取り入り、党派を作って孫和派を陥れたため、陸胤も罪を着せられ投獄される。彼は激しい拷問を受けたが、同志に関することは何も話さなかったという。

のち陸胤は衡陽(こうよう)の「督軍都尉(とくぐんとい)」に任ぜられる。

248年、交阯(こうし。交趾)や九真(きゅうしん)の異民族の不服従民が各地の城を攻め落とすと、交州(こうしゅう)全域は混乱状態に陥った。このとき陸胤が「交州刺史(こうしゅうのしし)・安南校尉(あんなんこうい)」に任ぜられ討伐に向かう。

ここで陸胤は南方の人々を諭し、国家の恩恵と誠実さについて説き、反乱者を帰順させようと考える。その結果、高涼(こうりょう)の頭目の黄呉(こうご)と配下3千余家が投降した。

さらに陸胤は軍勢を進めると、国家が約束したことを破らない旨を重ねて伝えさせ、実際に人々に財貨を分け与えた。

100余人の頭目と配下の5万余家は、これまで奥地に隠れ住み呉の支配を受け付けなかったが、そうした者たちも命令に従うようになり、交州一帯は平穏となった。この功により、陸胤は任地において「安南将軍(あんなんしょうぐん)」の官位を加えられた。

その後、陸胤は蒼梧(そうご)や建陵(けんりょう)の不服従民も討伐したうえ、これまでに降伏させた者の中から8千人を選び正規軍に編入した。

258年、陸胤は交州から召し還されて「西陵督(せいりょうのとく)」となり、「都亭侯(とていこう)」に封ぜられ、のち「虎林督(こりんのとく)」に転じた。

陸胤が死去(時期は不明)すると息子の陸式が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』に、「二宮の変(孫和派と孫霸派による確執)」に絡んで陸胤が投獄された経緯が見えました。

皇太子の孫和が地位を追われるかもしれないと不安を募らせる一方で、魯王の孫霸は兄に取って代わろうとの野望をたくましくします。

こうした折、孫権は側近を下がらせて楊竺と会い、孫霸の才能について話し合いました。孫権は楊竺の勧めに従い、孫霸を「皇太子」とすることを約束してしまいます。ところが牀(しょう。寝台)の下に隠れていたそば仕えの者から、この話が孫和に伝わりました。

そのうち陸胤が武昌(ぶしょう)へ行くことになり、孫和を訪ねて暇(いとま)乞いをしたところ、孫和は通常の形式で会おうとせず、目立たない服装に着替えたうえ陸胤の馬車まで出向きます。

ふたりが車内で密議を凝らした結果、陸胤が孫和の意向を受けて武昌にいる陸遜を動かし、皇太子の廃立を行わないよう諫める上表をしてもらうことになりました。

この件に関する陸遜の上表文を読んだ孫権は、楊竺が話を漏らしたものと疑いますが、楊竺は否定したため釈放されます。さらに楊竺は自ら調査にあたり、最近、西方へ行った者が陸胤しかいなかったことから、彼が陸遜に伝えたに違いないと報告しました。

その後、陸遜が孫権の使者に対し、あの件は陸胤から聞いたのだと話したので、孫権は陸胤を呼んで問いただします。すると陸胤は本当のことを言えば孫和にも罪が及ぶと考え、「楊竺が私に話したのです」と答えたのだとか。

結局、陸胤と楊竺はともに投獄され拷問を受けましたが、耐えかねた楊竺が自分の話したことだと認めたため、ついに処刑されたのです。

孫権の浅慮が招いた「二宮の変」は、一応の決着をみるまで9年(242~250年)もの歳月を要しました。そして誰にも利のない騒動でもありました。

なお、ここで挙げた『呉録』の記事については、陸遜が245年に憤死していることと、楊竺が処刑されたのが250年であることなどを考えると、時間的な経過がつかみにくいところが残りました。

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