費詩(ひし)

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【姓名】 費詩(ひし) 【あざな】 公挙(こうきょ)

【原籍】 犍為郡(けんいぐん)南安県(なんあんけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第204話で初登場。
【演義】 第065回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・費詩伝』あり。

関羽(かんう)を説いて大いに悟らせるも、劉備(りゅうび)には嫌われる

父母ともに不詳。費立(ひりゅう)という息子がいた。

費詩は劉璋(りゅうしょう)の時代(194~214年)に「緜竹県令(めんちくけんのれい)」に任ぜられた。

211年、劉備が劉璋の要請を受けて蜀へ入り、翌212年には葭萌(かぼう)から反転し劉璋を攻めた。

翌213年、劉備軍が緜竹に達すると、費詩はすぐに城を挙げ降伏。

翌214年、劉備が成都(せいと)で劉璋を降し「益州牧(えきしゅうのぼく)」を兼ねると、費詩は「督軍従事(とくぐんじゅうじ)」に任ぜられる。次いで地方へ出て「牂牁太守(そうかのたいしゅ)」となり、中央へ召し還されて州の「前部司馬(ぜんぶしば)」に転じた。

219年、劉備が「漢中王(かんちゅうおう)」になると、費詩は使者を命ぜられ、荊州(けいしゅう)の関羽に「前将軍(ぜんしょうぐん)」の叙任を伝えに行く。ところが関羽は、同時に黄忠(こうちゅう)が「後将軍(こうしょうぐん)」になったと聞き腹を立て、どうしても納得しない。

そこで費詩は関羽に、漢(かん)の高祖(こうそ。劉邦〈りゅうほう〉)が若いころから親しかった蕭何(しょうか)や曹参(そうさん)より、後から仕えた陳平(ちんぺい)や韓信(かんしん)の席次を上位とした例を挙げたり、王(劉備)と君侯(関羽)は例えるならひとつの体のようなもので、喜びも悲しみも、そして災いや幸福をもともにされる間柄であると説き、官号の高下や爵禄の多少を気にすべきではないと述べた。

すると関羽も大いに悟るところがあり、すぐさま叙任を受け入れたという。

221年、群臣が劉備に帝号を称してもらおうと論議したとき、費詩は上疏して反対意見を述べる。このため劉備の機嫌を損じ「永昌従事(えいしょうのじゅうじ)」に左遷された。

225年、費詩は諸葛亮(しょかつりょう)の南征に随行。

234年、諸葛亮が陣没したあと蔣琬(しょうえん)が政権を執ると、費詩は「諫議大夫(かんぎたいふ)」となったが自宅で死去(時期は不明)した。

管理人「かぶらがわ」より

費詩が関羽を説いた一件は『演義』(第73回)や『吉川版』(第226話)でも使われていましたが、劉備の機嫌を損じて左遷されたことは省かれたようですね。

結局、劉備は群臣に推戴(すいたい)されて帝位に即くわけですけど、もともと彼が献帝(けんてい)の存在をどう見ていたのか、イマイチつかめないところがあります。

もし何らかの形で献帝が益州へ逃れてくるようなことがあったら、劉備にとって困った事態になっていたのではないでしょうか?

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