楊洪(ようこう)

【姓名】 楊洪(ようこう) 【あざな】 季休(ききゅう)

【原籍】 犍為郡(けんいぐん)武陽県(ぶようけん)

【生没】 ?~228年(?歳)

【吉川】 第204話で初登場。
【演義】 第065回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・楊洪伝』あり。

冷静な判断で黄元(こうげん)の捕縛に貢献

父母ともに不詳。

楊洪は劉璋(りゅうしょう)の時代(194~214年)に益州(えきしゅう)の諸郡で官吏を務めた。

214年、劉備(りゅうび)が成都(せいと)で劉璋を降した後、楊洪は犍為太守(けんいたいしゅ)の李厳(りげん)の「功曹(こうそう)」に任ぜられる。

このとき李厳は郡の役所を移転させたいと考えたが、楊洪は諫めて聞き入れず、ついには「功曹」を辞め、官を去りたいとまで言いだす。李厳が州に推薦したため楊洪は「蜀部従事(しょくぶじゅうじ)」に任ぜられた。

217年、劉備が漢中(かんちゅう)の支配権を巡り曹操(そうそう)と争った際、蜀郡太守の法正(ほうせい)も劉備に随行する。その際、諸葛亮(しょかつりょう)の上奏によって楊洪が「蜀郡太守」を代行することになり、万事を円滑に処理したため本任とされた。しばらくして楊洪は「益州治中従事(えきしゅうちちゅうじゅうじ)」に転じた。

221年、劉備が帝位に即いた後、孫権(そんけん)討伐を強行するも、翌222年にかけて大敗し、引き揚げて永安(えいあん)にとどまる。

漢嘉太守(かんかたいしゅ)の黄元はかねて諸葛亮に疎まれていたので、劉備が病に倒れたと聞くと郡を挙げて背き、翌223年3月には臨邛城(りんきょうじょう)を焼く。ちょうど諸葛亮が永安へ見舞いに出かけており、成都はがら空きになっていた。

楊洪はすぐに皇太子(こうたいし)の劉禅(りゅうぜん)に上言し、親衛兵の派遣を求め、将軍(しょうぐん)の陳コツ(ちんこつ。勿+日)と鄭綽(ていしゃく)を討伐に向かわせる。ふたりは楊洪の言葉に従って南安峡口(なんあんきょうこう)を遮断し、首尾よく黄元を捕らえた。

同年4月に劉備が崩じ、翌5月に劉禅が帝位を継ぐと、楊洪は「関内侯(かんだいこう)」に封ぜられ「蜀郡太守・忠節将軍(ちゅうせつしょうぐん)」に任ぜられる。そのうち「越騎校尉(えっきこうい)」に転じたが、もとの通り「蜀郡太守」を兼ねた。

227年、諸葛亮が北伐のため漢中に進駐するにあたり、「留府長史(りゅうふちょうし)」に張裔(ちょうえい)を起用したいと考え楊洪の意見を聴く。

楊洪は張裔の実務能力を評価しながらも、公平さに欠けるところがあるとも言い、性格に裏表の少ない向朗(しょうろう)を残し、張裔を彼の下に置いたほうがよいと述べる。

楊洪と張裔は若いころ親しかったが、益州太守の張裔が雍闓(ようかい)に捕らえられ、孫権のもとへ送られ呉(ご)で流浪していたとき、楊洪が「蜀郡太守」となった。

蜀郡の郡吏の中に張裔の息子の張郁(ちょういく)がおり、わずかな過失により罰を受けることがあったが、楊洪は特別に目こぼしをしたりはしなかった。やがて帰国した張裔は、この話を聞き楊洪を深く恨み、ふたりの友情にひびが入る。

楊洪は諸葛亮に話した内容を張裔に細かく説明したが、当時の人々は楊洪自身が「留府長史」になりたがっているのではないかとか、仲たがいした張裔が要職に就くのが不満なのではないかと疑った。だがその後、楊洪の張裔評が私心より出たものではないことが明らかになる。

楊洪は若いころから学問を好まなかったものの、忠義で清潔、誠実で明晰(めいせき)な人物であり、公事を憂えること家事を憂えるようで、継母に仕えて孝を尽くしたという。

翌228年、楊洪は在任中に死去した。

管理人「かぶらがわ」より

友人の張裔の欠点を諸葛亮に告げてしまうあたりは、公事を家事同様に気にかけていたという楊洪らしい。また、息子の過失を目こぼししてもらえなかったことを恨んだ張裔より、楊洪のほうが人間性で上回っていた印象も受けますね。

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