劉永(りゅうえい) ※あざなは公寿(こうじゅ)

【姓名】 劉永(りゅうえい) 【あざな】 公寿(こうじゅ)

【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第239話で初登場。
【演義】 第077回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・劉永伝』あり。

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蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の息子、劉禅(りゅうぜん)の異母弟

父は劉備だが、母は不詳。異母兄に劉禅、異母弟に劉理(りゅうり)がおり、ほかに異母姉がふたりはいた。また、劉玄(りゅうげん)は孫にあたるともいう。

劉永は、221年6月に魯王(ろおう)に封ぜられた。223年4月に劉備が崩ずると、劉禅が帝位を継ぎ、230年には甘陵王(かんりょうおう)に移封された。

その後、263年に劉禅が魏(ぎ)の曹奐(そうかん)に降伏すると、翌264年には劉禅に付き従って洛陽(らくよう)へ移り、奉車都尉(ほうしゃとい)に任ぜられたうえ、郷侯(きょうこう)に封ぜられた。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、劉永は宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)を憎んでおり、この黄皓が劉禅の寵愛を受けて国政を操るようになると、劉永を讒訴(ざんそ)したそうです。

そのため劉禅は次第に劉永を遠ざけるようになり、10余年にもわたって謁見を許さないほどだったのだと。

また『三国志』(蜀書・劉璿伝〈りゅうせんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『蜀世譜(しょくせいふ)』によると、蜀の滅亡後、洛陽に移住した劉備の子や孫たちは、その後の永嘉(えいか)の大乱(西晋〈せいしん〉時代の永嘉年間〈307~312年〉に起こった騒乱)でほぼ絶えてしまったということです。

ただ、劉永の孫にあたる劉玄だけは蜀へ逃亡。当時、蜀の地を支配していた李雄(りゆう)は、勝手に劉玄を安楽公(あんらくこう)に封じ、劉禅の跡継ぎとしたのだとか。

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