曹賛(そうさん)B ※曹林(そうりん)の息子、魏(ぎ)の西郷哀侯(せいきょうあいこう)

【姓名】 曹賛(そうさん) 【あざな】 ?

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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曹林(そうりん)の息子、西郷哀侯(せいきょうあいこう)

父は曹林だが、母は不詳。曹壱(そういつ)は弟。曹林の跡を継いだ曹緯(そうい)も弟か?

215年、曹賛は早くに死去した曹玹(そうけん)の跡継ぎとして立てられ、西郷侯(せいきょうこう)に封ぜられた。

しかし曹賛も早くに亡くなり、息子はいなかった。そこで曹丕(そうひ)は、曹賛の弟の曹壱を曹玹の跡継ぎとして立てた。

221年、曹壱は改めて済陽侯(せいようこう)に封ぜられ、223年には済陽公に爵位が進んだ。

230年、亡き曹玹の爵位がさかのぼって進められ、懐公(済陽懐公)の諡号(しごう)が追贈された。

232年、さらに曹玹の爵位が進められて懐王(済陽懐王)とされ、亡き曹賛にも哀侯(西郷哀侯)の諡号が追贈された。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

曹林の息子として名が出てくる曹緯・曹賛・曹壱の兄弟の順番がイマイチはっきりしません。

上で挙げたように、曹壱が曹賛の弟だというのは『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・済陽懐王玹伝〈せいようかいおうけんでん〉)にありますが、曹緯はふたりの兄なのか弟なのか?

曹賛が曹玹の跡継ぎとして立てられたのは215年のことで、彼が早くに亡くなって息子もいなかったため、曹丕は(曹賛の)弟の曹壱に曹玹の跡を継がせています。

曹賛の没年は書かれていませんが、221年に曹壱が改めて済陽侯に封ぜられたとあることから、215~221年の間だと考えられます。

そして、曹緯が曹林の跡を継いだのは256年のこと。曹賛や曹壱の話から見ると、かなり後の時代になります。

それぞれの母親が、曹林の正室だったのか側室だったのかで話は変わってくると思いますが、年代的に考えれば、曹緯が曹賛・曹壱の弟と見るのが無理がないかと。

ただ、曹緯が曹林の跡を継いだときに相当な年齢だった可能性もないとは言えず――。これは断定しないほうがよさそう。

また『三国志』(魏書・沛穆王林伝〈はいぼくおうりんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『嵆氏譜(けいしふ)』によると、「嵆康(けいこう)の妻は曹林の孫娘だった」ということです。

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