【姓名】 夏侯称(かこうしょう) 【あざな】 叔権(しゅくけん)
【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)
【生没】 ?~?年(18歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
夏侯淵(かこうえん)の三男
父は夏侯淵だが、母は不詳。夏侯衡(かこうこう)と夏侯霸(かこうは)は兄で、夏侯威(かこうい)・夏侯栄(かこうえい)・夏侯恵(かこうけい)・夏侯和(かこうか)は弟。
夏侯称は幼いころ子どもたちを集めて大将役となり、よく戦争ごっこをした。規律を破った者は厳しく鞭(むち)打ったが、誰も思い切って逆らおうとしなかったという。
夏侯淵は見どころがあると思い、(『漢書〈かんじょ〉』の)「項羽伝(こううでん)」や兵書を読ませようとした。
しかし夏侯称は承知せず、こう応える。
「何かできることがあれば、自分の思う通りにやるだけです。他人から学ぶことなどありましょうか」
夏侯称が16歳の時、夏侯淵の狩猟についていき、逃げ走る虎を見て馬で追いかける。追うのをやめろと言われても聞かず、見事に一矢で射倒した。
この話が伝わると、曹操(そうそう)は夏侯称の手を執って大いに喜んだという。
また夏侯称は、曹丕(そうひ)と身分を越えた対等な付き合いをしていた。
宴会のたびに夏侯称の意気は座中を圧倒し、弁舌の士でも言い負かすことができない。そのため名のあった者の多くは彼と付き合った。
だが、夏侯称は18歳で亡くなって(時期は不明)しまった。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・夏侯淵伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く郭頒(かくはん)の『世語(せいご。魏晋世語〈ぎしんせいご〉)』によるもの。
この『世語』が、さらに夏侯淵の曾孫である夏侯湛(かこうたん)の書いた序文を引いており、そこに夏侯称と夏侯栄のことが見えています。
夏侯称には指揮官の才能があったようですが、弟の夏侯栄と同じく10代で夭折(ようせつ)。ふたりとも夏侯氏や曹氏にとって惜しい人材でした。
なお『三国志』(魏書・夏侯淵伝)には、(曹叡〈そうえい〉の)太和(たいわ)年間(227~233年)に夏侯霸の4人の弟が関内侯(かんだいこう)に封ぜられたという記事が見えるのですけど……。
4人の弟に夏侯称と夏侯栄は含まないと思われるのに、そう考えると数が合いません。『世語』が引いていた夏侯湛の序文、どこまでが本当のことなのでしょうね?
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