夏侯楙(かこうぼう)

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【姓名】 夏侯楙(かこうぼう) 【あざな】 子林(しりん)

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第278話で初登場。
【演義】 第091回で初登場。
【正史】 登場人物。

夏侯惇(かこうとん)の次男

父は夏侯惇だが、母は不詳。妻は曹氏(そうし。曹操〈そうそう〉の娘。清河長公主〈せいかちょうこうしゅ〉)。夏侯充(かこうじゅう)は兄で、夏侯子臧(かこうしそう)と夏侯子江(かこうしこう)は弟。このほかに弟がいたような記述もある。

夏侯楙は夏侯惇の存命中に「列侯(れっこう)」に封ぜられ、「侍中(じちゅう)」や「尚書(しょうしょ)」を歴任し、曹丕(そうひ)とは若いころから親しかったという。

夏侯惇は220年4月に死去した。

220年、曹丕が帝位に即くと、夏侯楙は「安西将軍(あんぜいしょうぐん)・持節(じせつ)」に任ぜられ、219年に戦死した夏侯淵(かこうえん)に代わり関中(かんちゅう)の諸軍を指揮する。だが、彼には生まれつき武略がなく、金儲けを好んだ。

228年、曹叡(そうえい)が西方へ親征した際、夏侯楙について上言した者がおり、このため都へ召し還され「尚書」に任ぜられる。

関中の在任中、彼は多くの家妓(かぎ)や側妾(そくしょう)を抱えたので、これが原因で妻の清河公主と不仲になっていた。

のち弟たちに礼に外れる行いがあり、しばしば夏侯楙は厳しく叱責した。弟たちは処分を受けることを恐れ、共謀して夏侯楙を誹謗(ひぼう)し、清河公主に罪状の上奏を頼む。

これを受けて夏侯楙は逮捕され、曹叡も処刑するつもりでいたが、長水校尉(ちょうすいこうい)の段黙(だんもく)は再考を促す。すると曹叡の気持ちも和らぎ、詔(みことのり)を下して調査を命じた。

その結果、夏侯楙の弟の夏侯子臧と夏侯子江が罪をでっちあげ、清河公主に代わって上表文を書いたことがわかった。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・夏侯惇伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるものです。夏侯楙が都へ召し還され、再び「尚書」となった後の事績はわかりませんでした。

夏侯楙と曹丕が親しかったことを示す例としては、『三国志』(魏書・陳思王植伝〈ちんしおうしょくでん〉)の裴松之注に引く魚豢の『魏略』に以下のような記事がありました。

「曹操は丁沖(ていちゅう)に教えを受けたことがあり、いつも感謝していた。その丁沖の息子の丁儀(ていぎ)が立派な人物だと聞くと、顔も見ないうちに娘の清河公主を娶せたいと思い、五官将(ごかんしょう)の曹丕に意見を聴いた」

「すると曹丕は言った。『女性は容貌を気にするものですが、正礼(せいれい。丁儀のあざな)は目の具合がよくありません。おそらく彼女は喜ばないでしょうから、それが心配です。伏波将軍(ふくはしょうぐん。夏侯惇)の息子の楙に遣るほうがよろしいでしょう』。曹操は曹丕の意見に従った」

曹丕が「五官将(五官中郎将〈ごかんちゅうろうしょう〉)」を務めていた期間は211~217年。

また夏侯楙の評判については、『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・魏延伝〈ぎえんでん〉)の裴松之注に引く魚豢の『魏略』に以下のような記事がありました。

「夏侯楙が『安西将軍』として長安(ちょうあん)を守り、諸葛亮(しょかつりょう)が南鄭(なんてい)で部下と作戦を相談していたとき魏延が言った」

「『聞くところでは、まだ夏侯楙は年が若く、ただ曹操の婿というだけで、臆病なうえに策のない男だとか。私に5千の精兵と5千斛(ごく)の兵糧をお貸しくださり、褒中(ほうちゅう)から秦嶺(しんれい)に沿って東進し、さらに子午谷(しごこく)から北進することを認めていただければ、10日も経たないうちに長安に到達できましょう』」

「『われらの急襲を聞き、夏侯楙は必ず船に乗り逃げ出すはず。そうなれば城内に御史(ぎょし)と京兆太守(けいちょうのたいしゅ)が残っているだけなので、横門(こうもん)にある食糧貯蔵庫と逃散した民の穀物で兵糧は十分に賄えます』」

「『東方(魏)が軍勢を集めるには20日程度かかりますから、殿が斜谷(やこく)を通って長安を目指されても、なお余裕があるに違いありません。こうすれば一度に咸陽(かんよう)以西を平定することができましょう』」

結局、諸葛亮はこの魏延の策を危険だと判断して採用しませんでしたが、夏侯楙の蜀側の評価がうかがえます。地位だけは高いのに実務能力が伴っていない……。彼のような人物の処遇を誤ると国が傾きかねないですね。

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