孫氏(そんし)E ※孫恭(そんきょう)の娘、孫綝(そんりん)の従姉、全尚(ぜんしょう)の妻

【姓名】 孫氏(そんし) ※名とあざなは不詳

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第113回で初登場。
【正史】 登場人物。

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孫恭(そんきょう)の娘

父は孫恭だが、母は不詳。孫峻(そんしゅん)は弟。

孫氏は全尚(ぜんしょう)に嫁ぎ、息子の全紀(ぜんき)と娘の全氏(ぜんし。孫亮〈そんりょう〉の皇后)を儲けた。

『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫綝伝〈そんりんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』には、以下のようにある。

「258年9月、孫亮は全紀を召し寄せ、孫綝を誅殺する計画を進めていることを打ち明け、父の全尚にも詔(みことのり)を伝えるよう命じた。その際、全紀の母である孫氏には、決して事を漏らさないよう注意を促した」

「全紀が詔を伝えると、全尚は成り行きをよく考えず、この話を妻の孫氏にもしてしまう。孫氏は密かに人を遣り、従弟の孫綝に事情を伝えさせた」

「夜中だったものの、孫綝は兵士を動員して行動を起こし、明け方には宮城を包囲した。孫亮は激怒し、自ら弓を手に出撃しようとしたが、側近や乳母らに引き留められた」

「孫亮はため息をついて悔しがり、2日も食事を取らず、皇后の全氏を罵った。『お前の父が間抜けだったから、私の大事を駄目にしてしまった』」

「そこで孫亮はもう一度、全紀を召し寄せようとした」

「しかし全紀は『わが父は詔をお受けしながら慎重な行動を取らなかったため、主上に申し訳ないことをした。何の面目があって再びお目通りできよう』と言って自殺した」という。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

『三国志』(呉書・孫綝伝)では、孫亮が孫綝の誅殺を計画していると孫綝に伝えたのは、孫氏ではなく娘の全氏だったとあります。

これについて孫盛(そんせい)は、『三国志』(呉書・孫亮伝)で「孫亮は若くして聡明(そうめい)だった」と称賛していることを挙げ、「まず孫亮は全紀と相談したはずで、先に全氏に知らせるようなことはしなかったに違いない。『江表伝』が説いている、事が漏れた理由のほうがつじつまが合っている」と述べています。

孫亮は廃位されて会稽王(かいけいおう)となりましたが、260年には会稽郡に広まった流言のため候官侯(こうかんこう)に降格されます。

その後、孫亮は任地へ向かう道中で自殺(異説もある)しますが、全氏は候官で暮らすことになったそうです。

一方で全尚は、一家眷属(けんぞく)を連れて零陵(れいりょう)へ移住したものの、後に殺害されたとのこと。

この孫氏がどこで亡くなったのか、イマイチはっきりしませんでした。258年12月に孫綝の一族として処刑されたのか、全尚に付いて零陵へ移住したのか?

ただ、『三国志』(呉書・孫亮全夫人伝〈そんりょうぜんふじんでん〉)の裴松之注に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』によると、「候官で暮らしていた全氏は、280年に呉が晋(しん)に平定された後で内地へ戻り、永寧(えいねい)年間(301~302年)に亡くなった」ということでした。娘の全氏は長生きできたのですね。

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