【姓名】 孫壱(そんいつ) 【あざな】 ?
【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)
【生没】 ?~259年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
魏(ぎ)への亡命後は厚遇されるも、3年目に死す
父は孫奐(そんかん)だが、母は不詳。孫承(そんしょう)は兄で孫封(そんほう)は弟。ほかに呂拠(りょきょ)と滕胤(とういん)に嫁いだ妹もいた。
234年、孫奐が死去すると孫承が爵位を継ぎ、昭武中郎将(しょうぶちゅうろうしょう)として兵をひきい、江夏太守(こうかたいしゅ)を兼ねた。
243年、孫承が死去したものの息子はおらず、庶弟の孫壱が跡を継ぐことになる。
253年、武衛将軍(ぶえいしょうぐん)の孫峻(そんしゅん)が太傅(たいふ)の諸葛恪(しょかつかく)を誅殺した。
このとき鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の孫壱は、全熙(ぜんき)や施績(しせき。朱績〈しゅせき〉)とともに、諸葛恪の弟で公安督(こうあんとく)の諸葛融(しょかつゆう)を攻める。
諸葛融が自殺すると、孫壱は功により鎮軍将軍(りょうぐんしょうぐん)・仮節(かせつ)に昇進し、夏口督(かこうとく)となった。
256年、孫峻が死去すると従弟の孫綝(そんりん)が実権を握り、対立していた大司馬(だいしば)の滕胤とその一族を誅殺したうえ、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の呂拠を自殺に追い込む。
滕胤と呂拠の妻はどちらも孫壱の妹であり、弟の孫封もふたりの企てに関与していたため自殺した。
翌257年5月、魏の征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)の諸葛誕(しょかつたん)が寿春(じゅしゅん)で反乱を起こす。
同年6月、孫亮(そんりょう)が文欽(ぶんきん)・唐咨(とうし)・全端(ぜんたん)らに命じ、歩騎3万をひきいて諸葛誕の救援に向かわせる。
別に孫綝の命を受けた朱異(しゅい)が、虎林(こりん)から軍勢をひきいて夏口を目指し、極秘裏に孫壱を襲撃しようとした。
朱異が武昌(ぶしょう)まで来たところで、孫壱は自分が狙われていることを悟る。
そこで部曲(ぶきょく。私兵)1千余人をひきいて魏へ逃亡することにし、途中で妹(滕胤の妻)のところに立ち寄り、彼女も一緒に連れていく。
曹髦(そうぼう)は詔(みことのり)を下し、孫壱を侍中(じちゅう)・車騎将軍(しゃきしょうぐん)・仮節・交州牧(こうしゅうぼく)に任じ、儀同三司(ぎどうさんし。三公待遇)として呉侯(ごこう)に封じたうえ、廃主の曹芳(そうほう)の貴人(きじん。皇妃の位のひとつ)だった邢氏(けいし)を妻として与える。
だが、邢氏は容貌こそ美しかったものの嫉妬深く、彼女に仕える者たちは酷使に耐えきれず、共謀して孫壱と邢氏を殺した。これは259年のことで、孫壱は魏への亡命後、3年目に死ぬことになった。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫静伝〈そんせいでん〉)に付された「孫奐伝」などによるもの。
孫壱の父の孫奐は40歳で亡くなっており、兄の孫承は生年不詳ながら、それより若くして亡くなったと思われます。
さらに孫壱自身は魏へ亡命した末に殺害され、弟の孫封も自殺という最期。不運のひと言では片づけられないほど巡り合わせが悪いですね……。
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