杜瓊(とけい)

【姓名】 杜瓊(とけい) 【あざな】 伯瑜(はくゆ)

【原籍】 蜀郡(しょくぐん)成都県(せいとけん)

【生没】 ?~250年(?歳)

【吉川】 第259話で初登場。
【演義】 第080回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・杜瓊伝』あり。

図讖(としん。未来の吉凶を記した予言的な書物)の学を究めた末にたどり着いた境地

父母ともに不詳。何人かの息子がいたことがうかがえるものの、名は不詳。

杜瓊は若いころ任安(じんあん)の下で図讖について学び、こうした技術に精通した。やがて劉璋(りゅうしょう)の時代(194~214年)に召されて「従事(じゅうじ)」となる。

214年、劉備(りゅうび)が成都で劉璋を降し「益州牧(えきしゅうのぼく)」を兼ねると、杜瓊は「議曹従事(ぎそうじゅうじ)」に任ぜられた。

223年、劉禅(りゅうぜん)が帝位を継ぐと「諫議大夫(かんぎたいふ)」に転じ、のち「左中郎将(さちゅうろうしょう)」「大鴻臚(だいこうろ)」「太常(たいじょう)」を歴任。そして250年、80余歳で死去した。

杜瓊は『韓詩章句(かんししょうく)』10余万言を著しながら、これを息子らに伝授しなかったので、彼の図讖の学ともども受け継ぐ者はいなかったという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、杜瓊はもの静かで口数も少なく、自宅の門を閉ざし世事に関わらないようにしていたということです。それでも蔣琬(しょうえん)や費禕(ひい)らはみな彼の才能を高く評価したのだとも。

また、杜瓊の学業は深奥を究めたものでしたが、天文を観察し独自の説を立てることはなかったといい、そのことについて譙周(しょうしゅう)が尋ねたところ、杜瓊はこう答えました。

「このような技術を明らかにするのは非常に難しく、自分で天文を観察して事象を見極めねばならず、他人に任せられない。昼夜を問わず苦労を重ねた後、ようやくわかってくるのだが、そうなるとまた(知り得た事象が)誰かに漏れ伝わらないかと不安になる。それならば最初から知らないほうがよいわけで、だから私はもう天文を見ないのだ」

何かを究めた者だけが到達できる境地とは、こういうものなのかもしれませんね。

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