吉川『三国志』の考察 第259話「魚紋(ぎょもん)」

劉備(りゅうび)の死を聞いた曹丕(そうひ)は、司馬懿(しばい)の献策を容れ、五路の大軍を動かして蜀(しょく)の混乱に乗じようとする。

ところが、劉禅(りゅうぜん)の頼みとする諸葛亮(しょかつりょう)は朝廷に姿を見せず、丞相府(じょうしょうふ)に籠もって池の魚を眺め続けていた。

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第259話の展開とポイント

(01)洛陽(らくよう)?

劉備の死は、影響するところ大きかった。蜀帝崩ずと聞こえて、誰よりも喜んだのは魏(ぎ)の曹丕。

蜀や呉(ご)に比べ、魏の曹丕の居所に触れないことが多いのが気になる。このときもどこにいたのかよくわからず。おそらく洛陽だろう。

曹丕は、この機会に大軍を出せば、一鼓して成都(せいと)も陥せるのではないかと群臣に諮る。

しかし賈詡(かく)は、「孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)がおりますよ」と言わぬばかりに、その軽挙に固く反対した。

すると、侍側から司馬懿が立って言う。

「蜀を討つは、まさに今にあり。今をおいて、いつその大事を期すべきか」

曹丕が尋ねると、司馬懿は、五路の大軍をもって蜀を討つ計を語る。

まず遼東(りょうとう)へ使いを遣って、鮮卑(せんぴ)の国王に金帛(きんぱく)を贈り、遼西(りょうせい)の胡夷勢(えびすぜい)10万を借り催して、西平関(せいへいかん)へ進出させる。これが第一路。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(鮮卑は)北方の異民族。後漢(ごかん)後半より、匈奴(きょうど)に代わって勢力を拡大しつつあった」という。

『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注には、「(西平関は)虚構の関名」との指摘があった。

遠く南蛮国(なんばんこく)へ密簡を送り、国王の孟獲(もうかく)に、将来大利ある約束を与え、蛮兵10万を催促して益州(えきしゅう)の永昌(えいしょう)や越嶲(えっすい)などへ働かせ、南方より蜀中を脅かさしめる。これが第二路。

隣好の策を立てて呉を動かし、両川(りょうせん。東川〈とうせん〉と西川〈せいせん〉。漢中〈かんちゅう〉と蜀)や峡口(きょうこう)に迫らせる。これが第三路。

井波『三国志演義(5)』(第85回)では、呉の孫権(そんけん)に10万の軍勢を出動させて、蜀の峡口に向かわせ、ただちに涪城(ふじょう)を攻略させようともくろんでいた。

降参の蜀将の孟達(もうたつ)に命じ、上庸(じょうよう)を中心とする10万の兵をもって涪城を取らしめる。これが第四路。

井波『三国志演義(5)』(第85回)では、孟達に攻撃させようとしていたのは涪城ではなく漢中。

ご一族の曹真(そうしん)さまを中原大都督(ちゅうげんだいととく)となし、陽平関(ようへいかん)より堂々と蜀に討ち入るの正攻。これが第五路。

こうすれば、たとえ諸葛亮がどう知恵を巡らせてみても、五路の50万という攻め口を防ぐことはできますまいと。

曹丕は大満足で決定を与え、たちまち使者が五方へ急ぐ。今や魏都の兵府は、異様な緊張を呈した。

ただ一抹の寂しさは、このころ曹操(そうそう)時代の功臣たる張遼(ちょうりょう)や徐晃(じょこう)などという旧日の大将たちは、みな列侯(れっこう)に封ぜられ、その領内に老いを養っている者が多かったことである。

このくだりについて井波『三国志演義(5)』(第85回)では、「このとき張遼らの旧将はみな列侯に封ぜられて、それぞれ冀州(きしゅう)・徐州(じょしゅう)・青州(せいしゅう)および合肥(がっぴ)などの各地に駐屯し、関所・渡し場・要害を守備していたため、出動命令は出されなかった」とある。この解釈の違いが、後の話にいくらか影響を与えている。

(02)成都

一方で蜀の成都は、すべての政務が諸葛亮の裁断に任せられ、旧臣みな結束し、劉備の没後も微動だにしないものを示していた。

その間に、亡き車騎将軍(しゃきしょうぐん)の張飛(ちょうひ)の娘は、今年ちょうど15歳になっていたので、劉禅(りゅうぜん)の皇后として正宮にかしずき入れることとなった。

この年(蜀の建興〈けんこう〉元〈223〉年)に張飛の娘が劉禅の皇后として立てられたことは、正史『三国志』にも見える。ただ、15歳という年齢は何を根拠にしたものなのかわからなかった。なお井波『三国志演義(5)』(第85回)では、張飛の娘は17歳だったとある。

ところが、この祝典があってからまだ幾日も経ないうちに、魏の大軍が五路より蜀へ進むという大異変が報ぜられる。しかも肝心の諸葛亮は、どうしたのかここ数日、朝廟(ちょうびょう)にも姿を見せなかった。

そのうち国境の五方面から、魏の大侵略の相貌(ありさま)が伝わる。

第一路は、遼東の鮮卑国の兵5万が、西平関を侵して四川(しせん)へ侵攻してくるもの。

第二路は、南蛮王の孟獲が、約7万をもって益州の南部を席巻してくるもの。

第三路は、呉の孫権が長江(ちょうこう)をさかのぼり、峡口から両川へ攻め入るもの。

第四路は、反将の孟達を中心に、上庸の兵4万が漢中を突くもの。

第五路は、大都督の曹真が魏軍の中堅をもって陽平関を突破し、東西南北の四境の味方と呼応して大挙、蜀に入って、成都を踏みつぶさんとするもの。

井波『三国志演義(5)』(第85回)では、5つの方面軍を数え上げる順番が逆になっていたが、理由はわからなかった。また同じく井波『三国志演義(5)』(第85回)では、5つの方面軍はみな10万という数で統一されていた。吉川『三国志』が、その数を減らしている理由もわからなかった。

もちろん宮門からは、何度となく諸葛亮のもとへ使いが通っている。けれど諸葛亮は門を閉じて、「近ごろ病のため、朝(ちょう)にも参内し得ぬ始末」とのみで、いかに事態の大変を取り次がせても、顔すら見せないというのだった。

いよいよ劉禅は恐れ悲しみ、勅使として、黄門侍郎(こうもんじろう)の董允(とういん)と諫議大夫(かんぎたいふ)の杜瓊(とけい)を差し向けた。

(03)成都 丞相府

さっそくふたりは丞相府を訪ねる。うわさの通り門は閉ざされ、番人は固く拒み、何と言っても通さない。やむなく門外から大音を上げ、腹立ち紛れに罵った。

すると、内苑(ないえん)を走ってくる者の足音がして、門を閉めたまま応える。

「丞相には明朝早天、府を出られて朝廟に会し、諸員と議せんと仰せられています。今日はお戻りあれ」

(04)成都

ふたりは劉禅にありのままを奏し、なお百官は、明日こそ丞相の参内ありと、翌日は朝から議堂に集まっていた。

しかし昼も過ぎ、日が暮れても、ついに諸葛亮はやってこない。紛々たる恨みや非難の声を放ち、百官はみな薄暮に帰り去った。

翌日、劉禅は杜瓊の勧めに従い、自ら丞相府へ行幸(みゆき)することにし、皇太后にまみえて子細を告げる。

ここでは触れていなかったが、このときの皇太后は呉氏(ごし)である。

皇太后も仰天し、自ら駕(が)を向けて、諸葛亮に問わんと言う。

だが、皇太后の出御(しゅつぎょ。お出まし)を仰ぐのはあまりに恐れ多いと、ただちに劉禅は丞相府へ行幸した。

(05)成都 丞相府

劉禅は車を降り、三重の門まで歩いて進むと、諸葛亮の居所を尋ねる。吏は恐懼(きょうく)して拝答した。

「奥庭の池のほとりで、魚の遊ぶのを根気よく眺めておられます。たぶん、今もそちらにおいでかと思われますが……」

劉禅がひとりで奥の園へ通ると、果たして池のほとりに立ち、竹の杖に寄り、ジッと水面を見ている諸葛亮がいた。

朝議に姿を見せない理由を問われると、諸葛亮はこう答える。

「ただ宰相たるのゆえをもって、無為無策のまま臨んでも、かえって諸員に迷妄を加えるのみですから、しばしジッと孤寂(こじゃく)を守り、深思していたわけであります」

「そして、日々こうして池のほとりに立って魚の生態を眺め、波紋の虚と魚遊の実とを、この世のさまに見立てて思案しているうち、今日ふと一案を思い浮かべました。陛下、もうご案じあそばされますな」

諸葛亮は、劉禅を一堂に請じて固く人を遠ざけ、次のごとき対策を密かに奏上した。

「わが蜀の馬超(ばちょう)は西涼(せいりょう)の生まれで、胡夷の間には神威天将軍(しんいてんしょうぐん)ととなえられ、今もって盛んな声望がございます」

「ゆえに、彼を向けて西平関を守らせ、機に臨み変に応じ、胡夷の勢をよく馴致(じゅんち)するときは、この第一路の守りは決して憂うるに足りません」

そして第二路の防ぎに対しては、さらに説いて言う。

「由来、南蛮の将兵は猛なりといえども、進取の気は薄く、猜疑(さいぎ)が深くて喧騒(けんそう)が多く、知をもって計るに陥りやすい弱点を持っております」

「臣すでに檄文(げきぶん)を飛ばして魏延(ぎえん)に擬兵(敵を欺くための偽りの兵。疑兵)の計を授け、益州南方の要所要所へ配備させてありますから、これまた宸襟(しんきん)を悩ましたもうには及びませぬ」

続いて、第四路と第五路への対応をこのように説く。

「なお、上庸の孟達が漢中へ侵攻してくる形勢ですが、彼は元来、蜀の一将であり、詩書に明るく、義においては、お味方の李厳(りげん)とすこぶる心交のあった人物です」

「義を知り、詩書を読むほどの人間に、良心のないわけはございません。よって、生死の交わりをなした李厳をその方面の防ぎに充て、私が文を作り、これを李厳の書簡として書かせたものを、彼の手から孟達へ送らせるのです」

「さすれば孟達の良心は自らの呵責(かしゃく)に、進むも得ず、退くも難く、結局は仮病を使い、逡巡(しゅんじゅん)の日を過ごしてしまうでしょう」

「次には、魏の中軍たる曹真の攻め口、陽平関の固めですが、彼処(かしこ)は屈強な要害の地勢。加うるに趙雲(ちょううん)が拠って守るところ。滅多に破られる恐れはございません」

「かく大観してくれば、以上の四路は憂うるに足らずで、この同時作戦はいかにも大掛かりではありますが、我にとっては、かけ声だけのものにすぎぬと断じてもよいほどでございます」

さらに、ここで初めて遊軍の備えをも打ち明ける。

「なお念のため、臣が先に密命を下して、関興(かんこう)と張苞(ちょうほう)におのおの2万の兵を授けて遊軍とし、諸方の攻め口に万一のある場合、奔馳(ほんち)して救うべしと言いつけておりますから、どうか御心(みこころ)を安められますように」

井波『三国志演義(5)』(第85回)では、関興と張苞がひきいた軍勢は3万ずつ。

こうして最後に、問題は何と言っても呉の動きだと話す。呉は魏が出兵を催促しても、決して軽々しく従わないでしょうが、四路の戦況が魏の有利に動き、蜀の敗れが見えたときは危険が予想されると。

蜀の守りが不壊(ふえ。堅固)鉄壁と見える間は、呉は動かない。そこで思案中なのは、この際の重大な使命を帯びて、呉へ使いに行く人物なのだとも。

やがて劉禅が後ろに諸葛亮を従え、一堂から出てくる。その気色は、ここへ来る前とは別人のように晴ればれとして、明るいえくぼすらたたえていた。

その様子を仰ぐと百官は、「これは丞相にお会いになり、何かよいことがあったに違いない」と推察。御車(みくるま)に扈従(こじゅう)の面々までにわかに陽気になり、還幸の儀仗(ぎじょう)は甚だにぎわった。

するとお供の内で、天を仰いで笑いながら、ひとり喜びをなしている者がある。諸葛亮は注意して見ていたが、御車が進みかけると、「きみだけ後に残っておれ」と引き留め、見送りを済ませてから門内へ導いた。

一亭の牀(しょう。腰掛け)に席を与えて問うと、この者は戸部尚書(こぶしょうしょ)の鄧芝(とうし)であることがわかる。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「『三国志演義』では、鄧芝がこの職(戸部尚書)に就いたことになっているが、後漢・三国時代にはこの官名はなかった」という。

また「(正史『三国志』の)『蜀書・鄧芝伝』によれば、鄧芝は尚書を務めてはいたが、当時の尚書台に戸部はなかった。戸部尚書が置かれたのは、実際には隋(ずい)・唐(とう)時代のことである」ともいう。

諸葛亮は彼と話して、使者への起用を決めた。さらに一堂に入れて数刻密談し、酒を供応して帰す。

(06)成都

翌日、諸葛亮は朝に上り、劉禅に奏して鄧芝の起用を願い出る。鄧芝は感激し、「この使命を全うし得なければ生還を期さない」と唱え、すぐに呉へ向けて出発した。

(07)建業(けんぎょう)

このとき呉は黄武(こうぶ)元年と改元し、いよいよ強大をなしている。

話が前後してわかりにくいが、呉が黄武の年号を建てたのは、魏の黄初(こうしょ)3(222)年のこと。そして蜀の鄧芝が呉へ遣わされたのは、呉の黄武2(223)年のことである。

だが魏の曹丕から、「ともに蜀を討ち、蜀を二分せん。我に四路進攻の大計あり。よろしく貴国も大軍をもって江をさかのぼり、同時に蜀へなだれ込め」との軍事提携の申し入れに対し、可否両論に分かれて容易に一決をみなかった。

孫権は陸遜(りくそん)を召し、その意中を聴く。

陸遜は閣議に臨んで抱負を述べ、両途に迷う国策に明瞭な指針を与えた。

「この際は、進むと見せて進まず、戦うと見せて戦わず。遷延これを旨として、魏軍の四路の戦況をしばらく観望しているに限る。もし魏の旗色が案外よければ、それはもう問題ない。わが軍もただちに蜀へ攻め入るまでのことである」

管理人「かぶらがわ」より

第259話で描かれていた魏の五路進攻については、驚くことにすべて『三国志演義』の創作です。ただし、鄧芝が呉へ遣わされたことだけは史実にも見えています。

『三国志演義大事典』によると「正史『三国志』には、曹丕が五路の大軍を起こして蜀を攻めたという記載はなく、しかも(蜀の)建興元(223)年には、魏と呉はまだ対峙(たいじ)していて、馬超もすでに死んでいる。したがってこのストーリーは虚構の産物である。ただ、鄧芝が呉に使いしたことは史実にある」ということでした。

そのほかにも第259話(01)では、張遼や徐晃が領内で老いを養っていたという記述がありましたけど……。史実の張遼は魏の黄初3(222)年に病死しており、徐晃も魏の太和(たいわ)元(227)年に病死しています。

なので、このふたりについても、史実を相当イジっていると言えるでしょう。張遼はもちろん、徐晃の場合は今後の話にその傾向が見られます。

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『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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