223年(魏の黄初4年・〈蜀の章武3年〉→建興元年・呉の黄武2年)の主な出来事

-223年- 癸卯(きぼう)
【魏】 黄初(こうしょ)4年 ※文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉)
【蜀】 (章武〈しょうぶ〉3年) → 建興(けんこう)元年 ※昭烈帝(しょうれつてい。劉備〈りゅうび〉) → 後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 黄武(こうぶ)2年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

スポンサーリンク
スポンサーリンク

月別および季節別の主な出来事

【01月】
魏(ぎ)の曹真(そうしん)が軍勢を分け、その一隊が江陵(こうりょう)の中洲(なかす)を占領する。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【01月】
呉(ご)の孫権が、夏口(かこう)の江夏山(こうかざん)に城壁を築かせる。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【01月】
呉の孫権が四分暦(しぶんれき)を改め、乾象暦(けんしょうれき)を用いることを決める。
『三国志』(呉書・呉主伝)

『正史 三国志6』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注によると、「乾象暦は後漢末(ごかんまつ)に劉洪(りゅうこう)が作った暦法。月の運行の変動を加味した優れた暦法だったとされる。後漢王朝の使用していた四分暦を改めて、新しい暦法を採用したことは、呉が新しい王朝として制度を改めたことを、天下に示したことになる」

「なお三国時代、魏では景初暦(けいしょれき)が、呉では乾象暦が、そして漢(かん)の跡を継ぐと称する蜀(しょく)では四分暦が用いられた。『晋書(しんじょ)』(律暦志〈りつれきし〉)に詳しい」とある。

【01月】
魏の曹丕が詔(みことのり)を下す。「四海のうちは平定されたばかりである」として、「自分勝手に個人的な復讐(ふくしゅう)をする者は、すべて族殺する」というもの。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文帝紀〈ぶんていぎ〉)

【?月】
魏の曹丕が、宛(えん)に南巡台(なんじゅんだい)を築く。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【02月】
蜀の丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)が、成都(せいと)から永安(えいあん)に到着する。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)

【03月】
魏の曹仁(そうじん)が、将軍の常彫(じょうちょう。常雕か?)らを遣わし、兵5千を油船(油を塗った皮をかぶせた船)に乗せ、明け方に濡須(じゅしゅ)の中洲に渡らせる。

曹仁の息子の曹泰(そうたい)は、そこを足場に呉の朱桓(しゅかん)を激しく攻め立てた。朱桓は手勢で防戦する一方、将軍の厳圭(げんけい)らを遣わして常彫を討ち破った。この月(3月)のうちに魏軍はすべて撤退した。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【03月】
丙申(へいしん)の日(8日)
魏の曹丕が、宛から洛陽宮(らくようきゅう)に還幸する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【03月】
癸卯(きぼう)の日(15日)
月が心宿(しんしゅく。さそり座の中央部)の中央の大星(大火〈たいか〉。さそり座のアンタレス)を犯す。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【03月】
丙午(へいご)の日(18日)
魏の曹丕が詔を下す。「呉の孫権が魏の民を殺害したため、猛将に命じて征討に向かわせた」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『魏書』

この詔の中で、「征東(征東大将軍〈せいとうだいしょうぐん〉の曹休〈そうきゅう〉)の諸軍は、孫権の一味である呂範(りょはん)らと水戦を行い、4万の首を斬り、1万艘(そう)の船を捕獲した。大司馬(だいしば。曹仁)は濡須を本拠として守備し、得た捕虜の数は1万に上る。中軍(中軍大将軍〈ちゅうぐんだいしょうぐん〉の曹真)と征南(征南大将軍〈せいなんだいしょうぐん〉の夏侯尚〈かこうしょう〉)は江陵を攻めて包囲し、左将軍(さしょうぐん)の張郃(ちょうこう)らの艦隊はまっすぐに渡河し、その南渚(なんしょ。江中にある中州)を攻め、水に向かって逃げて溺死した賊は数千人に及んだ」

「また、地下道を掘って城を攻めた際、城内には雀(スズメ)や鼠(ネズミ)も出入りできないようにし、それこそまな板の上の肉だった。ところが賊軍の中にひどい疫病が流行して、長江(ちょうこう)を挟む一帯の地を汚染し、伝染する恐れがあった」として、周(しゅう)の武王(ぶおう)、漢の光武帝(こうぶてい)、成湯(せいとう。殷〈いん〉の開祖)の例を挙げ、「いま江陵の包囲を解き、死ぬ運命にあった捕虜たちを大目に見ることにし、労役をやめ、国境の守備を中止したり、削減したりして、士民の力を養うため、全員に休息させることを命じた」とある。

【03月】「曹仁の死」
丁未(ていび)の日(19日)
魏の大司馬の曹仁が死去する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【03月】
先に蜀で反乱を起こした黄元(こうげん)が、軍を進めて臨邛県(りんきょうけん)を攻める。蜀の将軍の陳曶(ちんこつ)が討伐に向かう。黄元は敗れて捕らえられ、成都に送られたあと斬られた。
『三国志』(蜀書・先主伝)

【03月】
魏で疫病が大流行する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【04月】
呉の群臣が、孫権に帝位に即くよう勧進する。しかし孫権は承知しなかった。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【04月】「劉備の崩御(ほうぎょ)」
癸巳(きし)の日(24日?)
蜀の劉備が永安宮で崩御する。このとき63歳だった。
『三国志』(蜀書・先主伝)

『正史 三国志5』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注によると、「後の諸葛亮の上奏文によれば、先主(劉備)の死は4月24日のことである。潘眉(はんび)は、この4月の1日が戊午(ぼご)で、24日は辛巳(しんし)にあたり、癸巳ではない」という。

「『二十史朔閏表(にじゅっしさくじゅんひょう)』では、1日が戊午の翌日の己未(きび)であり、24日は壬午(じんご)になる。いずれにしても癸巳の日は4月になく、誤りだろう」とある。

【05月】
鵜鶘(ペリカン)が霊芝池(れいしち)に群がり、これを受けて魏の曹丕が詔を下す。「この鳥は『詩経(しきょう)』でいう汚沢(おたく)である」として、曹風(そうふう)の詩(候人〈こうじん〉)を挙げ、「天下にいる、優れた徳を持ち、立派な才能を持つ人物、ずば抜けた品行の君子を広く推挙し、曹国の人の風刺に応えよ」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【05月】
劉備の柩(ひつぎ)が永安から成都に戻り、昭烈皇帝と諡(おくりな)される。
『三国志』(蜀書・先主伝)

【05月】「劉禅の即位と蜀の改元」
蜀の劉禅が成都で即位する。このとき17歳だった。劉禅は、劉備の皇后である呉氏(ごし)を尊んで皇太后と呼び、大赦を行ったうえ、「章武」を「建興」と改元した。
『三国志』(蜀書・後主伝)

⇒05月
蜀の劉禅が即位し、「章武」を「建興」と改元する。引き続き諸葛亮が、丞相として蜀の政治を執ることになった。
『正史 三国志8』(小南一郎訳 ちくま学芸文庫)の年表

【05月】
呉の孫権のもとに、「曲阿(きょくあ)で甘露が降った」との報告が届く。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【?月】
蜀の劉禅が、張氏(ちょうし。張飛〈ちょうひ〉の娘)を皇后に立てる。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【06月】
辛酉(しんゆう)の日(4日)
魏の担当官吏が曹丕に上奏する。ふたつの廟(びょう)の造営を求めるもので、「太皇帝(たいこうてい。曹丕の祖父の曹嵩〈そうすう〉)の廟を建て、大長秋(だいちょうしゅう)・特進侯(とくしんこう。曹丕の曾祖父の曹騰〈そうとう〉)は高祖(こうそ。曹丕の祖父の祖父にあたる曹節〈そうせつ〉)と合祭し、近しい関係が断ち切れれば、順序に従って廃止されますように。特に武皇帝(ぶこうてい。曹操〈そうそう〉)の廟をお建てになり、季節ごとに供物を捧げて祭祀をされ、魏の太祖(たいそ)として、1万年の後まで廃止されませんように」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『魏書』

【06月】「曹彰(そうしょう)の死」
甲戌(こうじゅつ)の日(17日)
魏の曹丕の弟で、任城王(じんじょうおう)の曹彰が都(洛陽)で薨去(こうきょ)する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【06月】「賈詡(かく)の死」
甲申(こうしん)の日(27日)
魏の太尉(たいい)の賈詡が死去する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【06月】
太白星(たいはくせい。金星)が昼間に現れる。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【06月】
大雨によって伊水(いすい)と洛水(らくすい)があふれ、多くの民が亡くなり、家屋も破壊される。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【06月】
呉の孫権が、将軍の賀斉(がせい)に命じ、麋芳(びほう)と劉邵(りゅうしょう)らをひきいて魏の蘄春(きしゅん)を攻めさせる。劉邵らは、先に呉から魏に寝返り、蘄春太守(きしゅんたいしゅ)に任ぜられていた晋宗(しんそう)を生け捕りにした。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【夏】
蜀の牂牁太守(そうかたいしゅ)の朱褒(しゅほう)が、郡を擁して反乱を起こす。これより先、益州郡(えきしゅうぐん)で豪族の雍闓(ようかい)の反乱があり、太守の張裔(ちょうえい)を呉に追放し、郡を占拠して服従しなかった。これに呼応する形で、越嶲(えっすい)の蛮族の王である高定(こうてい)も蜀に背いた。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【07月】
乙未(いつび)の日(9日)
魏の大軍が、曹丕の東方巡幸に従って出発するにあたり、曹丕は太常(たいじょう)を遣わし、大きな牡牛(おうし)1頭を捧げて郊外で天を祭り、軍勢の出発を報告させる。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『魏書』

【08月】
丁卯(ていぼう)の日(11日)
魏の曹丕が、廷尉(ていい)の鍾繇(しょうよう)を太尉に任ずる。
『三国志』(魏書・文帝紀)

ここで「『魏書』にいう」として、魏の担当官吏の上奏が載せられている。「漢氏の宗廟(そうびょう)で奏されます『安世楽(あんせいらく)』を『正世楽(しょうせいらく)』に、『嘉至楽(かしらく)』を『迎霊楽(げいれいらく)』に、『武徳楽(ぶとくらく)』を『武頌楽(ぶしょうらく)』に、『昭容楽(しょうようらく)』を『昭業楽(しょうぎょうらく)』に、『雲翹舞(うんぎょうぶ)』を『鳳翔舞(ほうしょうぶ)』に、『育命舞(いくめいぶ)』を『霊応舞(れいおうぶ)』に、『武徳舞(ぶとくぶ)』を『武頌舞(ぶしょうぶ)』に、『文始舞(ぶんしぶ)』を『大韶舞(たいしょうぶ)』に、『五行舞(ごぎょうぶ)』を『大武舞(たいぶぶ)』に、それぞれ改称されますように」というもの。

【08月】
辛未(しんび)の日(15日)
魏の曹丕が、滎陽(けいよう)で木柵を作って狩猟を行い、そのまま東へ巡幸する。「その巡幸の間に、孫権征討の時の論功行賞を実施し、諸将以下、それぞれ働きに応じて爵位を進め、領邑(りょうゆう)の加増を行った」とある。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【08月】
蜀の劉禅が、劉備を恵陵(けいりょう)に葬る。
『三国志』(蜀書・先主伝)

【09月】
甲辰(こうしん)の日(19日)
魏の曹丕が許昌宮(きょしょうきゅう)に到着する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【?月】
この年、蜀の尚書郎(しょうしょろう)の鄧芝(とうし)が呉に遣わされ、好(よしみ)を固める。
『三国志』(蜀書・後主伝)

⇒11月
蜀の中郎将(ちゅうろうしょう)の鄧芝が、使者として呉を公式に訪問する。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【12月】
丙寅(へいいん)の日(12日)
魏の曹丕が、山陽公(さんようこう。漢の献帝〈けんてい〉の劉協〈りゅうきょう〉)の夫人(曹操の娘で曹丕の妹)に化粧料として領地を賜与し、同じくその娘の曼(まん。劉曼〈りゅうまん〉)を長楽郡公主(ちょうらくぐんこうしゅ)に封ずる。賜与された領地はそれぞれ500戸だった。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『魏書』

【冬】
魏の芳林園(ほうりんえん)に甘露が降る。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『魏書』

ここで「臣(わたくし)裴松之が調べるに」とあり、「芳林園は今(宋代〈そうだい〉)の華林園(かりんえん)である。斉王(せいおう)の曹芳(そうほう)が帝位に即くと、華林と改称したのである」と注釈している。

特記事項

「この年(223年)に亡くなったとされる人物」
賈詡(かく)邢顒(けいぎょう)蘇則(そそく)曹儼(そうげん)曹貢(そうこう)曹彰(そうしょう)曹仁(そうじん)孫桓(そんかん)張既(ちょうき)劉備(りゅうび)

「この年(223年)に生まれたとされる人物」
嵆康(けいこう)

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました