-250年- 庚午(こうご)
【魏】 嘉平(かへい)2年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉)
【蜀】 延熙(えんき)13年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 赤烏(せきう)13年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)
月別および季節別の主な出来事
【05月】
魏(ぎ)の曹芳が、征西将軍(せいせいしょうぐん)の郭淮(かくわい)を車騎将軍(しゃきしょうぐん)に任ずる。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)
【05月】
夏至の日(?日)
熒惑星(けいわくせい。火星)が南斗(なんと)の星座に入り、7月には魁(かい。北斗七星〈ほくとしちせい〉)の第2星を犯して東へ進む。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)
【08月】
呉(ご)の丹楊(たんよう)・句容(こうよう)・故鄣(こしょう)・寧国(ねいこく)の各所で山崩れが起こり、洪水になる。孫権は、詔(みことのり)を下して租税の払えない者を許し、種や食糧を貸し与えた。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【秋】「孫和(そんか)の幽閉と孫霸(そんは)の死」
呉の孫権が、皇太子の孫和を廃して故鄣に幽閉したうえ、魯王(ろおう)の孫霸には自殺を命ずる。
『三国志』(呉書・呉主伝)
⇒秋
呉の孫権が、皇太子の孫和を廃して庶人とし、孫霸には自殺を命ずる。孫霸に与(くみ)した楊竺(ようじく)・全寄(ぜんき)・呉安(ごあん)・孫奇(そんき)らは誅殺された。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
【10月】
魏の曹芳が、特進(とくしん)の孫資(そんし)を驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に任ずる。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【10月】
魏の文欽(ぶんきん)が呉への寝返りを装い、朱異(しゅい)をおびき寄せようとする。孫権は、呂拠(りょきょ)を朱異のもとに遣わし、文欽を迎えさせようとした。しかし朱異らが慎重な行動を取ったので、警戒した文欽は結局やってこなかった。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【11月】
魏の司空(しくう)の孫礼(そんれい)が死去する。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【11月】
呉の孫権が、息子の孫亮(そんりょう)を皇太子に立てる。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【11月】
呉の孫権が10万の軍勢を遣わし、堂邑(どうゆう)に涂塘(じょとう)を築かせる。これにより北方との通路を水浸しにして、魏軍の南進の障害にしようとした。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【12月】
乙未(いつび)の日(18日)
魏の征南将軍(せいなんしょうぐん)の王昶(おうちょう)が、長江(ちょうこう)を渡って呉を急襲し、これを撃破する。
『三国志』(魏書・斉王紀)
⇒12月
魏の大将軍(だいしょうぐん)の王昶が、呉の南郡(なんぐん)を包囲し、同じく魏の荊州刺史(けいしゅうしし)の王基(おうき)が、呉の西陵(せいりょう)に攻め寄せる。
孫権は、将軍の戴烈(たいれつ)と陸凱(りくかい)を遣わして防がせ、魏の両将は兵をまとめて引き揚げた。
『三国志』(呉書・呉主伝)
★裴松之注(はいしょうしちゅう)…庾闡(ゆせん)の「揚都賦(ようとのふ)」の注を引き、当時の烽火(のろし)について説明。
★魏の王昶の肩書が「斉王紀」と異なっている。なお、『三国志』(呉書・朱然伝〈しゅぜんでん〉)でも「魏の征南将軍の王昶は……」とあった。
★翌年(251年)4月の『三国志』(魏書・斉王紀)に、「魏の曹芳が、征南将軍の王昶を征南大将軍(せいなんだいしょうぐん)に任ずる」という記事があった。やはり、この時点では征南将軍だったようだ。
⇒?月
魏の曹芳が、呉の混乱に乗じて軍を進め、州泰(しゅうたい)が巫(ふ)と秭帰(しき)に、王基が夷陵(いりょう)に、王昶が江陵(こうりょう)に、それぞれ攻撃を仕掛ける。
『正史 三国志8』の年表
【12月】
甲辰(こうしん)の日(27日)
魏の東海王(とうかいおう)の曹霖(そうりん)が薨去(こうきょ)する。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【?月】
この年、蜀(しょく)の姜維(きょうい)が、再び魏の西平(せいへい)に出撃したものの、勝つことができずに帰還した。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)
【?月】
この年、呉に神人が現れて書き物を手渡し、「改元を行い、皇后を立てるように」と告げた。
『三国志』(呉書・呉主伝)
特記事項
「この年(250年)に亡くなったとされる人物」
胡質(こしつ)・胡昭(こしょう)・朱拠(しゅきょ)・曹霖(そうりん)?・孫奇(そんき)・孫俊(そんしゅん)A ※孫河(そんか)の息子・孫霸(そんは)・孫礼(そんれい)・杜瓊(とけい)・楊竺(ようじく)・劉放(りゅうほう)
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