263年(魏の景元4年・〈蜀の景耀6年〉→炎興元年・呉の永安6年)の主な出来事

-263年- 癸未(きび)
【魏】 景元(けいげん)4年 ※元帝(げんてい。曹奐〈そうかん〉)
【蜀】 (景耀〈けいよう〉6年) → 炎興(えんこう)元年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉) → 魏に降伏し滅亡
【呉】 永安(えいあん)6年 ※景帝(けいてい。孫休〈そんきゅう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【02月】
魏(ぎ)の曹奐が詔(みことのり)を下し、大将軍(だいしょうぐん)の司馬昭(しばしょう)を相国(しょうこく)に昇進させ、晋公(しんこう)に封じて九錫(きゅうせき)を加えることに触れ、「先の詔の通りとするように」と再び命ずる。しかし、またしても司馬昭が固辞したので沙汰やみになった。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・陳留王紀〈ちんりゅうおうぎ〉)

【04月】
呉(ご)の孫休のもとに、「零陵郡(れいりょうぐん)の泉陵(せんりょう)で黄龍が現れた」との報告が届く。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫休伝)

【05月】
魏の曹奐が詔を下す。蜀(しょく)が頼みにしているのは、ただ姜維(きょうい)ひとりであるとし、征西将軍(せいせいしょうぐん)の鄧艾(とうがい)に、「諸軍を統率して甘松(かんしょう)および沓中(とうちゅう)に進発し、姜維を生け捕りにするように」と命じたうえ、雍州刺史(ようしゅうしし)の諸葛緒(しょかつしょ)にも、「諸軍を統率して武都(ぶと)および高楼(こうろう)に進発し、前後から追い立てることを命ずる」というもの。

これに加えて鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)の鍾会(しょうかい)にも、「駱谷(らくこく)を通って蜀を攻撃するように」と命じた。
『三国志』(魏書・陳留王紀)

⇒夏
魏が大軍を起こし、征西将軍の鄧艾、鎮西将軍の鍾会、雍州刺史の諸葛緒に命じ、いくつかの街道から蜀への同時侵攻を仕掛ける。

これに対して蜀は、左右の車騎将軍(しゃきしょうぐん)の張翼(ちょうよく)と廖化(りょうか)、輔国大将軍(ほこくだいしょうぐん)の董厥(とうけつ)らを遣わして防がせた。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

【05月】
呉の呂興(りょこう)らが、交趾郡(こうしぐん)で反乱を起こし、交趾太守(こうしたいしゅ)の孫諝(そんしょ)を殺害する。

これより先のこと、孫諝は郡内に徴用令を出して優れた技術者を選び、1千余人を建業(けんぎょう)へ送っていた。このとき建業から察戦(さっせん)の役人がやってきたため、人々は、また徴用されるのではないかと恐れた。

そこで呂興らは、この動揺に乗じて兵士や民を扇動し、異民族も誘い込んで反乱を起こした。
『三国志』(呉書・孫休伝)

⇒?月
この年、呉の交趾郡で反乱を起こした呂興が、交趾太守の孫諝を殺害したあと魏に使者を遣わし、「新たな太守と援軍を送ってほしい」と乞う。
『三国志』(呉書・孫休伝)

⇒05月
呉の交趾の郡吏の呂興らが、交趾太守の孫諝を殺害して反乱を起こす。九真(きゅうしん)・日南(にちなん)の両郡もこれに呼応した。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【08月】「蜀の改元」
蜀の劉禅が大赦を行い、「景耀」を「炎興」と改元する。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【09月】
魏の太尉(たいい)の高柔(こうじゅう)が死去する。
『三国志』(魏書・陳留王紀)

【10月】
癸卯(きぼう)の日(11日)
魏の曹奐が、卞氏(べんし)を皇后に立てる。
『三国志』(魏書・陳留王紀)

【10月】「晋公司馬昭」
甲寅(こういん)の日(22日)
魏の曹奐が詔を下し、大将軍の司馬昭を相国に昇進させ、晋公に封じて九錫を加えることについて、「先の詔の通りとするように」と再び命ずる。ここでようやく司馬昭が詔を受け入れる。
『三国志』(魏書・陳留王紀)

【10月】
呉の孫休のもとに、蜀から「魏の攻撃を受けている」との知らせが届く。
『三国志』(呉書・孫休伝)

【冬】
魏の鄧艾が、緜竹県(めんちくけん)で蜀の衛将軍(えいしょうぐん)の諸葛瞻(しょかつせん)を撃破する。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【11月】
魏の曹奐が大赦を行う。
『三国志』(魏書・陳留王紀)

【11月】「劉禅の降伏と蜀の滅亡」
蜀の劉禅が、魏の征西将軍の鄧艾に降伏する。これにより、巴蜀(はしょく)の地はことごとく魏に平定された。
『三国志』(魏書・陳留王紀)

⇒?月
蜀の劉禅が、光禄大夫(こうろくたいふ)の譙周(しょうしゅう)の意見を容れ、魏の鄧艾に降伏する。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【11月】
癸未(きび)の日(21日)
呉の建業の石頭小城(せきとうしょうじょう)で火災があり、西南の部分を180丈焼く。
『三国志』(呉書・孫休伝)

【11月】
甲申(こうしん)の日(22日)
呉の孫休が、大将軍の丁奉(ていほう)に命じ、諸軍を指揮して魏の寿春(じゅしゅん)へ向かわせる。

また将軍の留平(りゅうへい)を南郡(なんぐん)の施績(しせき。朱績〈しゅせき〉)のもとへ行かせ、「どの方面に軍を出すべきか検討するように」と命じた。

さらに将軍の丁封(ていほう)と孫異(そんい)には、沔中(べんちゅう。漢水〈かんすい〉流域)へと軍を進めさせた。これらの動きはみな魏を牽制(けんせい)し、蜀を援護するためのものだった。

そのため「蜀の劉禅が魏に降伏した」との知らせが届くと、これらの軍事行動は取りやめになった。
『三国志』(呉書・孫休伝)

【12月】
庚戌(こうじゅつ)の日(19日)
魏の曹奐が、司徒(しと)の鄭沖(ていちゅう)を太保(たいほ)に任ずる。
『三国志』(魏書・陳留王紀)

【12月】「梁州(りょうしゅう)の設置」
壬子(じんし)の日(21日)
魏の曹奐が、益州を分割して梁州を設置する。
『三国志』(魏書・陳留王紀)

【12月】
癸丑(きちゅう)の日(22日)
魏の曹奐が、益州の士民に特赦を行い、今後5年間にわたって租税の半分を免除する。
『三国志』(魏書・陳留王紀)

【12月】
乙卯(いつぼう)の日(24日)
魏の曹奐が、征西将軍の鄧艾を太尉に、鎮西将軍の鍾会を司徒に、それぞれ任ずる。
『三国志』(魏書・陳留王紀)

【12月】「郭太后(かくたいこう。明元郭皇后〈めいげんかくこうごう〉)の崩御(ほうぎょ)」
乙卯の日
魏の郭太后が崩御する。
『三国志』(魏書・陳留王紀)

【?月】
この年、呉の丞相(じょうしょう)の濮陽興(ぼくようこう)が、「屯田に携わっている農民から、1万人を選んで兵士にすること」、さらに「武陵郡(ぶりょうぐん)を分割して天門郡(てんもんぐん)を設置すること」を建議した。
『三国志』(呉書・孫休伝)

【?月】
この年、呉の長沙(ちょうさ)に青龍が、慈胡(じこ。慈湖)に白い燕(ツバメ)が、豫章(よしょう)に赤い雀(スズメ)が、それぞれ現れた。
『三国志』(呉書・孫休伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『呉歴(ごれき)』

特記事項

「この年(263年)に亡くなったとされる人物」
郭氏(かくし)A ※曹叡(そうえい)の妻阮籍(げんせき)高柔(こうじゅう)黄崇(こうすう)諸葛瞻(しょかつせん)鍾毓(しょういく)孫諝(そんしょ)傅僉(ふせん)劉諶(りゅうしん)

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