258年(魏の甘露3年・〈蜀の延熙21年〉→景耀元年・〈呉の太平3年〉→永安元年)の主な出来事

-258年- 戊寅(ぼいん)
【魏】 甘露(かんろ)3年 ※高貴郷公(こうききょうこう。曹髦〈そうぼう〉)
【蜀】 景耀(けいよう)元年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 (太平〈たいへい〉3年) → 永安(えいあん)元年 ※会稽王(かいけいおう。孫亮〈そんりょう〉) → 景帝(けいてい。孫休〈そんきゅう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
諸葛誕(しょかつたん)が文欽(ぶんきん)を殺害する。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫亮伝〈そんりょうでん〉)

⇒01月
諸葛誕と文欽が寿春(じゅしゅん)の城内で対立し、諸葛誕が文欽を殺害する。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【02月】「諸葛誕の死」
魏(ぎ)の大将軍(だいしょうぐん)の司馬昭(しばしょう)が寿春城を陥す。諸葛誕は斬られ、彼の起こした反乱もようやく鎮圧された。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・高貴郷公紀〈こうききょうこうぎ〉)

⇒03月
魏の司馬昭が寿春を陥す。諸葛誕は側近とともに戦死し、部将や軍吏らはみな降伏した。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【03月】
魏の曹髦が詔(みことのり)を下し、大将軍の司馬昭が諸葛誕の反乱を鎮圧した功をたたえ、本営を置いていた丘頭(きゅうとう)を武丘(ぶきゅう)と改める。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【05月】
魏の曹髦が、大将軍の司馬昭を相国(しょうこく)に任じたうえ、晋公(しんこう)に封じて領邑(りょうゆう)8郡を与え、九錫(きゅうせき)を加えようとする。しかし司馬昭が、前後9度にもわたって辞退したため沙汰やみになる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【06月】
丙子(へいし)の日(13日)
魏の曹髦が詔を下す。先に南陽郡(なんようぐん)の山賊が騒動を起こし、もとの太守(たいしゅ)の東里袞(とうりこん)を人質にしようとした際、功曹(こうそう)の応余(おうよ)が単身で東里袞を守り、自身は命を落とした件に触れ、「応余の孫の応倫(おうりん)を官吏に取り立て、応余の忠節に殉じた賞を受けさせるように。この処置を司徒(しと)に命ずる」というもの。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

『楚国先賢伝(そこくせんけんでん)』…応余について。

【06月】
辛卯(しんぼう)の日(28日)
魏の曹髦が、先の淮南(わいなん)討伐(諸葛誕の反乱鎮圧)における功績の査定を命じ、それぞれに格差をつけて爵位や恩賞を授ける。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【07月】
呉の孫亮が、もとの斉王(せいおう)の孫奮(そんふん)を章安侯(しょうあんこう)に封ずる。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【07月】
呉の孫亮が州郡に詔を下し、宮殿を建設するための材木を伐採させる。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【08月】
丙寅(へいいん)の日(4日)
魏の曹髦が詔を下し、三代(夏〈か〉・殷〈いん〉・周〈しゅう〉)の例に則って三老(さんろう)と五更(ごこう)の官を設置することにし、関内侯(かんだいこう)の王祥(おうしょう)を三老に、同じく関内侯の鄭小同(ていしょうどう)を五更に、それぞれ任ずる。また、曹髦は大勢の臣下をひきいて、自らその儀式を執り行った。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』…このとき曹髦から意見を求められた王祥の返答。

『鄭玄別伝(ていげんべつでん。じょうげんべつでん)』…鄭小同について。

『魏名臣奏(ぎめいしんそう)』…このときの華歆(かきん)の上表文。鄭小同の学識や人格を称賛するもの。

『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』…後に鄭小同は、司馬昭の密書を読んだと疑われ、毒を盛られて死んだという話。

鄭玄が『文王世子(ぶんのうせいし)』と『楽記(がくき)』に付けた注…三老と五更について。

『明堂論(めいどうろん)』…五更は五叟と表記すべきだという話と、これについての裴松之(はいしょうし)の考察。

【08月】
甲戌(こうじゅつ)の日(12日)
魏の曹髦が、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の王昶(おうちょう)を司空(しくう)に任ずる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【08月】
呉では、雲が垂れ込めながら雨が降らない日が40日余りも続いた。

呉の孫亮は、孫綝(そんりん)の専横が目に余るとして、太常(たいじょう)の全尚(ぜんしょう)や将軍の劉丞(りゅうじょう)とともに、孫綝誅殺の謀(はかりごと)を巡らせた。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【08月】
蜀(しょく)の尚書令(しょうしょれい)の陳祗(ちんし)が死去する。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【?月】
蜀の劉禅が、董厥(とうけつ)を尚書令に、諸葛瞻(しょかつせん)を尚書僕射(しょうしょぼくや)に、それぞれ任ずる。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表

【09月】「孫亮の廃位」
戊午(ぼご)の日(26日)
呉の孫綝が、兵を差し向けて全尚を捕らえたうえ、弟の孫恩(そんおん)を遣わし、劉丞を蒼龍門(そうりょうもん)の外で攻め殺す。

その後、孫綝は大臣たちを宮門に呼び集め、「孫亮を退位させ、会稽王(かいけいおう)とする」と宣言した。このとき孫亮は16歳だった。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

『三国志』(呉書・孫綝伝)および裴松之注に引く『江表伝(こうひょうでん)』…孫亮の抵抗失敗と廃位に至るまでの話。

【09月】
己未(きび)の日(27日)
呉の孫綝が、宗正(そうせい)の孫楷(そんかい)と中書郎(ちゅうしょろう)の董朝(とうちょう)を遣わし、孫休を帝位に即けるべく迎えに行かせる。

当初、孫休は、何か企みがあるのではないかと疑っていたが、数日逡巡(しゅんじゅん)した後、都(建業〈けんぎょう〉)へ向けて出発した。
『三国志』(呉書・孫休伝〈そんきゅうでん〉)

【10月】「孫休の即位と呉の改元」
己卯(きぼう)の日(18日)
呉の孫休が帝位に即く。また、この日のうちに大赦を行い、「太平」を「永安」と改元した。
『三国志』(呉書・孫休伝)

【10月】
壬午(じんご)の日(21日)
呉の孫休が詔を下し、大将軍の孫綝を丞相(じょうしょう)・荊州牧(けいしゅうぼく)に任じて、封邑(ほうゆう)5県を加増する。

また、武衛将軍(ぶえいしょうぐん)の孫恩を御史大夫(ぎょしたいふ)・衛将軍(えいしょうぐん)・中軍督(ちゅうぐんとく)に任じて県侯(けんこう)に封じ、威遠将軍(いえんしょうぐん)の孫拠(そんきょ)を右将軍(ゆうしょうぐん)に任じて同じく県侯に封じ、偏将軍(へんしょうぐん)の孫幹(そんかん)を雑号将軍(ざつごうしょうぐん)に任じて亭侯(ていこう)に封じ、長水校尉(ちょうすいこうい)の張布(ちょうふ)を輔義将軍(ほぎしょうぐん)に任じて永康侯(えいこうこう)に封じ、董朝を郷侯(きょうこう)に封じた。

さらに、かつて孫休が丹楊(たんよう)にいたとき、彼に圧力をかけた丹楊太守(たんようたいしゅ)の李衡(りこう)について触れ、「自ら役人のもとに出頭した李衡を釈放し、郡に戻すように」と命じた。
『三国志』(呉書・孫休伝)

『襄陽記(じょうようき)』…李衡について。

『三国志』(呉書・孫綝伝)…このときの孫休の詔や、孫綝一門から5人(孫綝・孫恩・孫拠・孫幹・孫闓〈そんかい〉)の侯が出た話。

⇒?月
この年、呉の大将軍の孫綝が、主君の孫亮を廃し、琅邪王(ろうやおう)の孫休を立てた。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

【10月】
己丑(きちゅう)の日(28日)
呉の孫休が、孫晧(そんこう)を烏程侯(うていこう)に、孫晧の弟の孫徳(そんとく)を銭唐侯(せんとうこう)に、同じく弟の孫謙(そんけん)を永安侯(えいあんこう)に、それぞれ封ずる。
『三国志』(呉書・孫休伝)

『江表伝』…呉の群臣が孫休に、「皇后と皇太子をお立ていただきたい」と上表したものの、孫休が、政事に臨んで日が浅いことを理由に許さなかった話。

【11月】
甲午(こうご)の日(3日)
呉では風の方向が目まぐるしく変わり、連日、霧が立ち込めた。呉の孫綝の一門から5人も侯が出て、それぞれ近衛兵を指揮下に置き、その権勢は主君をしのいだ。

彼らが言上する意見はみな尊重され、反対の声も出なかった。そのため彼らは、ますます勝手気ままに振る舞うようになった。しかし孫休は、彼らが変事を起こすことを恐れ、しばしば恩賞を加えた。

丙申(へいしん)の日(5日)
呉の孫休が詔を下し、「朕の即位に尽力した者たちの名を調べ上げ、これまでの例により、爵位を加えられる者たちには速やかに封爵を実施するように」と命ずる。

戊戌(ぼじゅつ)の日(7日)
呉の孫休が詔を下し、大将軍の孫綝の職掌が煩多であることに触れ、「衛将軍・御史大夫の孫恩を侍中(じちゅう)に任じ、孫綝と分担して諸事の処理にあたるように」と命ずる。

『三国志』(呉書・孫綝伝)…ほぼ同様の内容。

壬子(じんし)の日(21日)
呉の孫休が詔を下し、現状では役人たちが家を治めていくのが難しいことに触れ、「もし家に5人いるうちの3人までが公事に従事している場合、その父兄が希望するひとりだけは家に留め、米の供出と軍役を免除する」とした。

さらに「部将や官吏のうち、先に永昌亭(えいしょうてい)で朕を出迎えて付き従った者には、みな官位1級を加増する」ともした。
『三国志』(呉書・孫休伝)

【12月】
丁卯(ていぼう)の日(7日)
呉の建業に踊言が流れ、「明日の朝会で変事が起こるだろう」とささやかれた。これを聞いた孫綝は機嫌を悪くした。その夜、暴風が吹き、木を倒して砂を巻き上げた。孫綝は、ますます不安を募らせた。
『三国志』(呉書・孫綝伝)

【12月】「孫綝の死」
戊辰(ぼしん)の臘(ろう。祖先および百神の祭祀)の日(8日)
呉の百官が朝賀に集い、公卿(こうけい)たちが昇殿したとき、孫休は武士に命じて孫綝を捕縛させ、その日のうちに死刑に処した。
『三国志』(呉書・孫休伝)

『三国志』(呉書・孫綝伝)…戊辰の日の臘会(ろうかい)の様子や孫綝一門の誅殺について。同じく、孫綝の誅殺後に下された孫休の詔について。

【12月】
己巳(きし)の日(9日)
呉の孫休が詔を下し、「左将軍(さしょうぐん)の張布は、姦臣(かんしん。孫綝)を誅したことに功があった」として、張布に中軍督を加官し、張布の弟の張惇(ちょうとん)を都亭侯(とていこう)に封じて兵300を与え、張惇の弟の張恂(ちょうじゅん)を校尉(こうい)に任ずる。
『三国志』(呉書・孫休伝)

【12月】
呉の孫休が詔を下し、「いにしえの制度に則って学官を設置し、五経博士(ごきょうはくし)を立て、その役目に最もふさわしい人物を選んで厚遇するように」と命ずる。

また「すでに官吏である者や、部将や官吏の子弟から、学問を好み、志のある者を選抜し、それぞれに五経博士の講義を受けさせるように。そして、1年ごとに試験を課して成績を評価し、その結果によって官位と恩賞を与える」とも述べた。
『三国志』(呉書・孫休伝)

【?月】
この年、魏の頓丘(とんきゅう)・冠軍(かんぐん)・陽夏(ようか)の3県にある井戸の中に、青龍と黄龍が続けて現れた。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【?月】
この年、魏の曹髦が、曹璜(そうこう。曹奐〈そうかん〉)を安次県(あんじけん)の常道郷公(じょうどうきょうこう)に封じた。
『三国志』(魏書・陳留王紀〈ちんりゅうおうぎ〉)

【?月】「蜀の改元と黄皓(こうこう)の台頭」
この年、蜀の姜維(きょうい)が成都(せいと)に帰還した。

史官が「景星(おめでたい星)が現れました」と上言したため、劉禅は大赦を行い、「延熙」を「景耀」と改元した。また、宦官(かんがん)の黄皓が初めて政治権力を握った。
『三国志』(蜀書・後主伝)

特記事項

「この年(258年)に亡くなったとされる人物」
諸葛誕(しょかつたん)全尚(ぜんしょう)孫恩(そんおん)孫闓(そんかい)孫幹(そんかん)孫拠(そんきょ)孫綝(そんりん)陳祗(ちんし)文欽(ぶんきん)

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