-274年- 甲午(こうご)
【晋】 泰始(たいし)10年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉)
【呉】 鳳皇(ほうおう。鳳凰)3年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉)
月別および季節別の主な出来事
【02月】「平州(へいしゅう)の設置」
晋(しん)の司馬炎が、幽州(ゆうしゅう)を分割して平州を設置する。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
【?月】
呉(ご)の会稽郡(かいけいぐん)で、「章安侯(しょうあんこう)の孫奮(そんふん)が天子(てんし)になるだろう」という妖言が広まる。
呉の臨海太守(りんかいたいしゅ)の奚熙(けいき)は、会稽太守の郭誕(かくたん)に書簡を送って国政を非難した。
郭誕は孫晧に、奚熙の(国政を非難した)書簡のことは上言したが、(孫奮が天子になるだろうという)妖言については上言しなかったということで、建安(けんあん)へ送られ、船を造る労役に充てられた。
一方で孫晧は、三郡督(さんぐんとく)の何植(かしょく)を遣わして奚熙を捕らえようとしたが、奚熙は兵を徴用して守りを固め、海路を遮断した。
ところが、奚熙の子飼いの兵が奚熙を殺害した。奚熙の首は建業(けんぎょう)へ送られ、その一族も皆殺しになった。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)
★『会稽邵氏家伝(かいけいしょうしかでん)』…郭誕の功曹(こうそう)を務めていた邵疇(しょうちゅう)の忠節について。
【07月】
呉の孫晧が、25人の使者を各地に遣わし、「その地に潜伏している逃亡者たちを摘発し、都(建業)へ送るように」と命ずる。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
【07月】「陸抗(りくこう)の死」
呉の大司馬(だいしば)の陸抗が死去する。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
【09月】
晋の司馬炎が、陳騫(ちんけん)を太尉(たいい)に任ずる。
『正史 三国志8』の年表
【?月】
晋の杜預(とよ)が、富平津(ふへいしん)に河橋を造る。
『正史 三国志8』の年表
⇒09月
晋の杜預が、富平津に河橋を造る。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表
★杜預については、慣例として「どよ」と読まれるとのこと。
【?月】
呉では、「建衡(けんこう)」を「鳳皇(鳳凰)」と改元(272年)してからこの年(274年)まで、疫病が大流行して絶えることがなかった。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
【?月】
この年、呉の孫晧が鬱林郡(うつりんぐん)を分割し、桂林郡(けいりんぐん)を設置した。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
【?月】「曹芳(そうほう)の死」
この年、魏(ぎ)の廃帝の曹芳が薨去(こうきょ)した。
『正史 三国志8』の年表
⇒?月
この年、魏の廃帝の曹芳が薨去した。このとき44歳だった。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表
【?月】
この年、石勒(せきろく)が生まれた。
『正史 三国志8』の年表
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