216年(漢の建安21年)の主な出来事

-216年- 丙申(へいしん)
【漢】 建安(けんあん)21年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【02月】
曹操(そうそう)が鄴(ぎょう)に帰還する。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

【02月】
甲午(こうご)の日(24日)
曹操が初めて春の祭りを行う。
『三国志』(魏書・武帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』

【03月】
壬寅(じんいん)の日(3日)
曹操が籍田(せきでん。お供えの穀物を収穫する田)を耕す。
『三国志』(魏書・武帝紀)

『魏書』…有司(ゆうし。担当官吏)が四季ごとに行っている軍事訓練について上奏。年に一度、立秋のころに吉日を選び、閲兵を行うよう求めて許可された話。

【05月】「魏王(ぎおう)曹操」
献帝が、魏公(ぎこう)の曹操の爵位を進めて魏王とする。
『三国志』(魏書・武帝紀)

『献帝伝』…このとき下された献帝の詔(みことのり)。

⇒04月
甲午の日(25日)
曹操が自ら爵位を進めて魏王を称する。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)

【05月】
己亥(きがい)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】
代郡(だいぐん)の烏丸族(うがんぞく)の行単于(こうぜんう。単于代理)である普富盧(ふふろ)が配下の侯王(こうおう。官名)とともに来朝する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
献帝が、曹操の娘を公主(こうしゅ。内親王)と呼び、湯沐の邑(とうもくのゆう。化粧料としての領地)を与えることを許す。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【07月】
匈奴(きょうど)の南単于(なんぜんう)の呼廚泉(こちゅうせん)が配下の名王(めいおう。官名)を引き連れて来朝する。曹操は賓客の礼をもって待遇し、そのまま魏に引き留めた。このため右賢王(ゆうけんおう)の去卑(きょひ)が国元を取り仕切ることになった。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒07月
匈奴の南単于が来朝する。
『後漢書』(献帝紀)

【08月】
曹操が大理(だいり)の鍾繇(しょうよう)を魏の相国(しょうこく)に任ずる。
『三国志』(魏書・武帝紀)

また「『魏書』にいう」として、「初めて奉常(ほうじょう)と宗正(そうせい)の官を設置した」ともある。

【08月】
曹操が中尉(ちゅうい)の崔琰(さいえん)を殺害する。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【10月】
曹操が兵の観閲を行ったあと孫権(そんけん)討伐に向かう。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【11月】
曹操が譙(しょう)に到着する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

また「『魏書』にいう」として、「王(曹操)は自ら鐘と太鼓を手にし、兵を進ませたり退かせたりした」ともある。

【冬】
曹操が居巣(きょそう)に本営を置き、そこから濡須(じゅしゅ)を攻める。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【?月】
この年、鄱陽(はよう)の平民の尤突(ゆうとつ)が曹操から印綬(いんじゅ)を授けられて内通し、民衆を教唆し孫権に反抗的な行動を起こさせた。陵陽(りょうよう)・始安(しあん)・涇県(けいけん)の3県もそろって尤突に呼応した。

孫権配下の賀斉(がせい)が陸遜(りくそん)と協力して尤突の討伐にあたる。賀斉らが反乱者数千の首を斬ると、ほかの一味は震え上がって降伏し、丹楊(たんよう)の3県(陵陽・安呉・涇県)もすべて降伏した。
『三国志』(呉書・賀斉伝)

【?月】
この年、曹操が琅邪王(ろうやおう)の劉熙(りゅうき)を殺害し、国が廃された。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると「(このとき劉熙は)長江(ちょうこう)を渡(って孫権の支配地に移)ろうと謀った罪により誅殺された」という。

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正史年表 210年代
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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