173年(漢の熹平2年)の主な出来事

-173年- 癸丑(きちゅう)
【漢】 熹平(きへい)2年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
疫病が大流行する。霊帝は使者を巡行させ、医薬品の賜与を命じた。
『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【01月】
丁丑(ていちゅう)の日(27日)
司空(しくう)の宗倶(そうく)が死去する。
『後漢書』(霊帝紀)

【02月】
壬午(じんご)の日(3日)
霊帝が大赦を行う。
『後漢書』(霊帝紀)

【02月】
霊帝が、光禄勲(こうろくくん)の楊賜(ようし)を司空に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【03月】
霊帝が、太尉(たいい)の李咸(りかん)を罷免する。
『後漢書』(霊帝紀)

【05月】
霊帝が、司隷校尉(しれいこうい)の段熲(だんけい)を太尉に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【05月】
沛国相(はいこくしょう。正しくは陳国相〈ちんこくしょう〉)の師遷(しせん)が、陳王(ちんおう)の劉寵(りゅうちょう)を誣告(ぶこく)した罪により、投獄されて獄死する。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると「『後漢書』(陳敬王伝〈ちんけいおうでん〉)には陳の国相の師遷とある」という。「『東観漢記(とうかんかんき)』には、陳の行相の師遷が上奏して、『沛相の魏愔(ぎいん)は前に陳相だったとき、陳王の劉寵と交通しておりました』と述べたとある。明らかに魏愔が沛相であり、ここで師遷を沛相というのはおそらく誤りである」という。

また『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「師遷は陳国相。陳王の劉寵が、前の陳相だった魏愔の進言を受けて(天子〈てんし〉の特権である)天祭(てんさい)を執り行っていたことを上奏した。しかし取り調べの結果、魏愔が無実と認定されたため、逆に師遷が誣告罪に問われて誅殺された」という。

同じく『全譯後漢書 第2冊』の補注によると、「魏愔は沛国相。陳相だったとき劉寵に進言し、天を祭ったとして罪に問われたが、実際は長寿を願って黄帝(こうてい)と老子(ろうし)を祭ったものだったと主張。霊帝が、前年(172年)に勃海王(ぼっかいおう)の劉悝(りゅうかい)を誅殺したばかりで、この謀反の立件に消極的だったこともあって許された」という。

【06月】
北海国(ほっかいこく)で地震が起こる。これに関連して、北海国と東萊郡(とうらいぐん)で津波の被害が出た。
『後漢書』(霊帝紀)

【07月】
霊帝が、司空の楊賜を罷免し、太常(たいじょう)の唐珍(とうちん)を司空に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
日南郡(にちなんぐん)の塞外の国が通訳を重ね、漢(かん)に貢ぎ物を献ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
霊帝が、太尉の段熲を罷免する。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
鮮卑(せんぴ)が幽州(ゆうしゅう)・幷州(へいしゅう)の両州に侵攻する。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
癸酉(きゆう)の日(29日)、晦(かい)?
日食が起こる。
『後漢書』(霊帝紀)

特記事項

この年は特になし。

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