174年(漢の熹平3年)の主な出来事

-174年- 甲寅(こういん)
【漢】 熹平(きへい)3年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
夫余国(ふよこく)の使者が漢(かん)に来朝し貢ぎ物を献ずる。
『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉)

【02月】
己巳(きし)の日(26日)
霊帝が大赦を行う。
『後漢書』(霊帝紀)

【02月】
霊帝が太常(たいじょう)の陳耽(ちんたん)を太尉(たいい)に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【03月】
中山王(ちゅうざんおう)の劉暢(りゅうちょう)が薨去(こうきょ)する。劉暢には息子がなかったため国が廃された。
『後漢書』(霊帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると「劉暢は中山王。順帝(じゅんてい)の永和(えいわ)5(140)年に父である中山孝王(ちゅうざんこうおう)劉弘(りゅうこう)の跡を継いで中山王となり、この年(174年)に薨じた。諡(おくりな)は穆(ぼく)」。

「なお、王先謙(おうせんけん)の『後漢書集解(ごかんじょしつかい)』に銭大昕(せんたいきん)が指摘する通り、『後漢書』(中山王伝)では劉暢の息子である劉稚(りゅうち)が跡を継ぎ、この劉稚に息子がなかったことから廃国となっている。劉稚の没年は定かでないが、少なくとも本紀のごとく、劉暢の死によって中山国が廃されたわけではないとある」という。

【06月】
霊帝が、河間王(かかんおう)の劉利(りゅうり)の息子である劉康(りゅうこう)を済南王(せいなんおう)に封じ、自身の父である孝仁皇帝(こうじんこうてい。劉萇〈りゅうちょう〉)の祭祀を奉じさせる。
『後漢書』(霊帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「劉康は済南王。劉利の息子。孝仁皇帝の祭祀を執り行わせるため、桓帝(かんてい)のときに絶えた済南王家を継ぐ形で封ぜられた。没年、諡号(しごう)ともに不詳。なお王先謙の『後漢書集解』に、銭大昕は『太平御覧(たいへいぎょらん)』(封建部〈ほうけんぶ〉外戚封〈がいせきほう〉)を引き、ここでいう済南王が劉庾(りゅうゆ)である可能性を示唆している」という。

【秋】
洛水(らくすい)が氾濫する。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
癸丑(きちゅう)の日(14日)
霊帝が未決囚について、縑(きぬ)を納めることでその罪を購わせる。
『後漢書』(霊帝紀)

【11月】
揚州刺史(ようしゅうしし)の臧旻(そうびん)が丹陽太守(たんようたいしゅ)の陳夤(ちんいん)をひきい、先に会稽郡(かいけいぐん)で反乱を起こしていた許生(きょせい)を討ち破り、これを斬る。
『後漢書』(霊帝紀)

⇒?月
孫堅(そんけん)が兵を起こし、州郡の兵と協力しつつ許生(許昌〈きょしょう〉)の討伐を行う。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

先の172年にも同じような記事が出てくる。許生(許昌)の討伐が始まったのは172年のことであり、この174年に平定されたという解釈らしい。

⇒08月
臧旻・陳寅(ちんいん)が許生を破り、これを斬る。
『正史 三国志8』の年表

【11月】
任城王(じんじょうおう)の劉博(りゅうはく)が薨去する。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
鮮卑(せんぴ)が北地郡(ほくちぐん)に侵攻したものの、北地太守(ほくちたいしゅ)の夏育(かいく)が追撃し討ち破る。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
鮮卑が再び幷州(へいしゅう)に侵攻する。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
霊帝が司空の唐珍(とうちん)を罷免し、永楽少府(えいらくしょうふ)の許訓(きょくん)を司空に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
この年、曹操が孝廉(こうれん)に推挙され郎(ろう)に任ぜられた。
『三国志全人名事典』(『中国の思想』刊行委員会編著 徳間書店)の関連略年表

⇒?月
この年、曹操が孝廉に推挙され洛陽北部尉(らくようほくぶい)に就任し、禁令を犯す者を厳しく取り締まった。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表

【?】
この年、皇甫規(こうほき)が死去した(104年~)。
『正史 三国志8』の年表

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170年代 正史年表
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