-251年- 辛未(しんび)
【魏】 嘉平(かへい)3年 ※少帝(曹芳〈そうほう〉)
【蜀】 延熙(えんき)14年 ※後主(劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 (赤烏〈せきう〉14年) → 太元(たいげん)元年 ※大帝(孫権〈そんけん〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】
魏の荊州刺史の王基(おうき)と新城太守の州泰(しゅうたい)が、呉を攻めて撃破し、降伏する者が数千人に及ぶ。
『三国志』(魏書・斉王紀)
⇒01月
魏の荊州刺史の王基が、呉の西陵を攻め、数千人を擒(とりこ)とする。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)の『三国志』年表
【02月】
魏の曹芳が、南郡に夷陵県を設置し、呉の降人たちを住まわせる。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【03月】
魏の曹芳が、尚書令の司馬孚(しばふ)を司空に任ずる。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【04月】
甲申(こうしん)の日(9日)
魏の曹芳が、征南将軍の王昶(おうちょう)を征南大将軍に任ずる。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【04月】
壬辰(じんしん)の日(17日)
魏の曹芳が大赦を行う。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【05月】「王淩(おうりょう)の死」
丙午(へいご)の日(2日)
魏の太尉の王淩が、曹芳を廃して楚王の曹彪(そうひゅう)を擁立しようと謀ったことが発覚する。曹芳は、太傅の司馬懿(しばい)に王淩征伐を命じた。
★この記事は、上にある大赦の記事の直後に置かれており、4月のことらしく書かれていた。しかし丙午の日というなら、『正史 三国志1』(今鷹真〈いまたか・まこと〉、井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注で指摘されていたように、翌月の5月2日と見るべきだろう。
甲寅(こういん)の日(10日)
魏の太尉の王淩が自殺する。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【05月】「呉の改元」
呉の孫権が、潘氏(はんし)を皇后に立てたうえ、大赦を行い、「赤烏」を「太元」と改元する。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【05月】
呉の孫権が、中書郎の李崇(りすう)を遣わし、以前から臨海郡の羅陽県に住んでいた王表(おうひょう)と名乗る神に、輔国将軍・羅陽王の印綬(官印と組み紐〈ひも〉)を授けて迎えさせる。
7月に入り、王表が李崇とともに都(建業)に到着。孫権は蒼龍門(建業の東門)の外に王表の屋敷を建ててやり、しばしば側近に酒食を持たせて訪ねさせた。
王表は、水害や日照りなどの小さな事柄について予言し、それがよく的中した。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【06月】「曹彪の死」
魏の曹芳が、楚王の曹彪を死刑に処す。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【夏】
蜀の大将軍の費禕(ひい)が成都に帰還する。
『三国志』(蜀書・後主伝)
【07月】「甄皇后(しんこうごう)の崩御」
壬戌(じんじゅつ)の日(19日)
魏の甄皇后が崩御する。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【07月】
辛未(しんび)の日(28日)
魏の曹芳が、司空の司馬孚を太尉に任ずる。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【08月】
甲戌(こうじゅつ)の日(1日)、朔(さく)
呉で大風が吹き、長江や海があふれ、平地にも深さ8尺(せき)の水がつく。呉郡では高陵(孫堅の陵)の松柏が抜け、郡城の南門が吹き飛ばされて壊れた。
『三国志』(呉書・呉主伝)
★ここは干支(かんし)を補っておく。
【08月】「司馬懿の死」
戊寅(ぼいん)の日(5日)
魏の太傅の司馬懿が死去する。曹芳は、司馬懿の息子である衛将軍の司馬師(しばし)を、撫軍大将軍・録尚書事に任じた。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【08月】
乙未(いつび)の日(22日)
魏の曹芳が、懐甄皇后(甄氏)を太清陵に葬る。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【08月】
庚子(こうし)の日(27日)
魏の驃騎将軍の孫資(そんし)が死去する。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【11月】
魏の担当官吏が、曹芳に上奏する。「太祖(曹操〈そうそう〉)の霊廟に併せて祭るべき諸功臣を、改めて官位によって並べ替えられますように」というもの。
これにより、亡き太傅の司馬懿が功績・官位ともに高かったので、最上位に置かれることになった。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【11月】
呉の孫権が大赦を行う。その後、孫権は都(建業)の南郊で祭祀を執り行うが、それを終えて帰った後、病気になって寝ついた。
『三国志』(呉書・呉主伝)
★『呉録』…孫権は肺炎にかかったという話。
【12月】
魏の曹芳が、光禄勲の鄭沖(ていちゅう)を司空に任ずる。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【12月】
呉の孫権が、大将軍の諸葛恪(しょかつかく)を駅馬で召し還し、太子太傅に任ずる。また、詔を下して徭役(ようえき)をやめ、軍事税を減らして民の苦しみを除いた。
『三国志』(呉書・呉主伝)
⇒?月
このとき、会稽太守の滕胤(とういん)も太常に任ぜられ、諸葛恪とともに皇太子(孫亮〈そんりょう〉)の補佐にあたることになった。
『三国志』(呉書・孫亮伝)
【冬】
蜀の大将軍の費禕が再び北方に赴き、漢寿に駐屯する。
『三国志』(蜀書・後主伝)
【冬】
蜀の劉禅が大赦を行う。
『三国志』(蜀書・後主伝)
特記事項
「この年(251年)に亡くなったとされる人物」
王金虎(おうきんこ)・王広(おうこう)・王飛梟(おうひきょう)・王明山(おうめいざん)?・王淩(おうりょう)・甄氏(しんし)B ※曹芳(そうほう)の妻・単固(ぜんこ)・曹彪(そうひゅう)・孫資(そんし)・鄧芝(とうし)・呂乂(りょがい)
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