-206年- 丙戌(へいじゅつ)
【漢】 建安(けんあん)11年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】
曹操(そうそう)が、自ら高幹(こうかん)の討伐に向かう。これを聞いた高幹は、配下の部将を壺関(こかん)の守りに残して匈奴(きょうど)へ行き、単于(ぜんう)に救援を求めた。しかし単于は要請を断った。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)
【01月】
彗星(すいせい)が北斗(ほくと)に現れる。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)
【?月】
曹操が、3か月の包囲を経て壺関を陥す。高幹は荊州(けいしゅう)に逃げようとしたものの、道中で上洛都尉(じょうらくとい)の王琰(おうえん)に捕らえられて斬られた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
⇒03月
曹操が、幷州(へいしゅう)で高幹を討ち破り、これを捕らえる。
『後漢書』(献帝紀)
★李賢注(りけんちゅう)によると「(曹丕〈そうひ〉の)『典論(てんろん)』に、『(このとき)上洛都尉の王琰がこれを討ち破り、追撃してその首を斬った』とある」という。
【07月】
武威太守(ぶいたいしゅ)の張猛(ちょうもう)が、雍州刺史(ようしゅうしし)の邯鄲商(かんたんしょう)を殺害する。
『後漢書』(献帝紀)
★李賢注によると「袁宏(えんこう)の『後漢紀(ごかんき)』では、雍州を涼州(りょうしゅう)に作る」という。
【08月】
曹操が東に向かい、海賊の管承(かんしょう)の討伐に乗り出す。曹操は淳于(じゅんう)まで行くと、楽進(がくしん)と李典(りてん)を遣わして管承を攻め破り、管承は海中の島に逃げ込んだ。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【?月】
曹操が、東海郡(とうかいぐん)から襄賁(じょうほん)・郯(たん)・戚(せき)の諸県を割いて琅邪郡(ろうやぐん)に付けたうえ、昌慮郡(しょうりょぐん)を廃止する。
『三国志』(魏書・武帝紀)
★『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)によると、「『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』に、『(この年、献帝が)昌慮郡を廃止して東海郡に併せた』とある」という。
【10月】
乙亥(いつがい)の日(?日)
曹操が布告を出す。「今後、もろもろの掾属(えんぞく。属官)である治中従事(ちちゅうじゅうじ)や別駕従事(べつがじゅうじ)は、毎月1日にそれぞれ政治の欠陥について進言するように」というもの。
『三国志』(魏書・武帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『魏書』
【?月】
そのむかし3郡(遼西〈りょうせい〉・遼東〈りょうとう〉・右北平〈ゆうほくへい〉)の烏丸(うがん)は、天下の動乱につけ込んで幽州(ゆうしゅう)を討ち破り、漢(かん)の民10余万戸を略取した。
袁紹(えんしょう)は、その酋長(しゅうちょう)らをみな単于に取り立ててやり、従者の娘を自分の娘に仕立てて彼らに娶(めあわ)せた。
遼西の単于の蹋頓(とうとつ)が最も強力で、袁紹に厚遇されていた。そのため曹操に敗れた袁尚(えんしょう)兄弟は、彼を頼った。蹋頓はしばしば国境を越えて侵入し、被害を与えた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【?月】
曹操が、蹋頓討伐のため、運河を掘らせて呼沲(こた)から泒水(こすい)に通じ、平虜渠(へいりょきょ)と名付ける。また、泃河(きょが)の河口からも運河を掘らせて潞河(ろが)に通じ、泉州渠(せんしゅうきょ)と名付け、海まで通じさせた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
★『後漢書』(郡国志)の劉昭注によると「『上党記(じょうとうき)』に『建安11(206)年になると、洶河口(きょうかこう)から溝を切り開いて潞河に注ぎ込ませ、泉州梁(せんしゅうりょう)と名付けて海に通じさせた』とある」という。
★河川の名などにいくらか違いがあるようだ。
★同じく『後漢書』(郡国志)の劉昭注によると「『魏志(ぎし。三国志の魏書)』(武帝紀)に『建安10(205)年に溝を掘って呼沱(こだ)から汾水(ふんすい)に注ぎ込ませ、平虜渠と名付けた』とある」という。
★『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注が指摘するように、劉昭注で引用されている『三国志』(魏書・武帝紀)の字句には異同がある。
【?月】
この年、献帝が、もとの琅邪王(ろうやおう)の劉容(りゅうよう)の息子である劉熙(りゅうき)を、琅邪王に封じた。
『後漢書』(献帝紀)
【?月】
この年、献帝が、斉国(せいこく)・北海(ほっかい)・阜陵(ふりょう)・下邳(かひ)・常山(じょうざん)・甘陵(かんりょう)・済北(せいほく)・平原(へいげん)の8か国を、みな廃止した。
『後漢書』(献帝紀)
特記事項
「この年(206年)に亡くなったとされる人物」
太史慈(たいしじ)
「この年(206年)に生まれたとされる人物」
王濬(おうしゅん)
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