-207年- 丁亥(ていがい)
【漢】 建安(けんあん)12年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)
月別および季節別の主な出来事
【02月】
曹操(そうそう)が、淳于(じゅんう)から鄴(ぎょう)に帰還する。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)
【02月】
丁酉(ていゆう)の日(5日)
曹操が布告を出す。挙兵から19年が過ぎたことに触れ、「征伐した相手に必ず勝てたのは、賢明なる士大夫の力である」として、「急いで功績を評定し、封爵を行うように」というもの。
これにより、功臣20余人が列侯(れっこう)に取り立てられ、その他の者もそれぞれ功績の大小に従って封爵を受けた。さらに戦死者の孤児にも、それぞれ軽重の差をつけて特別待遇を与えた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【?月】「曹操の烏丸(うがん。烏桓)遠征」
曹操が、3郡(遼西〈りょうせい〉・遼東〈りょうとう〉・右北平〈ゆうほくへい〉)の烏丸討伐のため北方へ向かう。
このとき曹操配下の諸将はみな、留守の間に劉備(りゅうび)が劉表(りゅうひょう)を説き伏せて、許(きょ)を襲撃することを不安視し、曹操の出兵を諫めた。
ただ郭嘉(かくか)だけは、劉表は劉備を任用できないと判断し、曹操に烏丸遠征を行うよう勧めていた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【05月】
曹操が無終(ぶしゅう)に到着する。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【07月】
大洪水があり、海沿いの道路が不通になる。曹操は、道案内を願い出た田疇(でんちゅう)に従って軍を進めた。
盧龍(ろりょう)の砦を出たところ、道路が断絶していて通れなかった。そこで曹操は、山を掘らせて谷を埋め、500余里にわたる道をつける。白檀(はくたん)を通って平岡(へいこう)を過ぎ、鮮卑族(せんぴぞく)の領土を横切って東方の柳城(りゅうじょう)を目指した。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【?月】
袁熙(えんき)と袁尚(えんしょう)らが、柳城まで200里に迫った曹操軍に気づき、蹋頓(とうとつ)、遼西の単于(ぜんう)の楼班(ろうはん)、右北平の単于の能臣抵之(のうしんていし)らとともに、数万の騎兵をひきいて迎撃に出る。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【08月】
曹操が、白狼山(はくろうざん)で袁熙と袁尚らの軍勢に遭遇する。
曹操は敵陣に乱れがあるのを見ると、張遼(ちょうりょう)に先鋒を命じて攻めさせる。この戦いで、蹋頓および名王(めいおう。官名)以下の幹部を斬った。蛮族と漢族で降伏した者は20余万人に上った。
遼東の単于の速僕丸(そくぼくがん)および遼西や北平の酋長(しゅうちょう)たちは、同族の者を見捨て、袁熙と袁尚とともに遼東に逃亡した。しかし、なお彼らは数千騎の軍勢を擁していた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
⇒08月
曹操が、柳城県で烏桓(烏丸)を大破し、蹋頓を斬る。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)
★李賢注(りけんちゅう)によると「蹋頓は匈奴の王号である。柳城は県の名であり、遼西郡に属する。唐(とう)の営州県(えいしゅうけん)である」という。
★『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「中華書局本(ちゅうかしょきょくぼん)の校勘記は、蹋頓を匈奴の王号と解釈する李賢注に疑義を提出している」という。
【09月】「袁熙・袁尚の死」
曹操が、兵をひきいて柳城から帰途に就く。遼東太守(りょうとうたいしゅ)の公孫康(こうそんこう)は、逃げ込んできた袁熙と袁尚の兄弟や速僕丸らを斬り、その首を曹操に届けた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
⇒11月
遼東太守の公孫康が、袁熙と袁尚を殺害する。
『後漢書』(献帝紀)
【10月】
彗星(すいせい)が鶉尾宿(じゅんびしゅく)に現れる。
『後漢書』(献帝紀)
★李賢注によると「鶉尾は(南南東である)巳(し)の方角である」という。
【10月】
乙巳(いっし)の日(17日)
黄巾賊(こうきんぞく)が、済南王(せいなんおう)の劉贇(りゅういん)を殺害する。
『後漢書』(献帝紀)
★李賢注によると「(劉贇は)河間孝王(かかんこうおう)より5代の孫である」という。
★『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「劉贇は、章帝(しょうてい)の息子である河間孝王の劉開(りゅうかい)の5代孫である」という。
【11月】
曹操が易水(えきすい)に到着する。代郡(だいぐん)の烏丸族で行単于(こうぜんう。単于代理)の普富盧(ふふろ)と、上郡(じょうぐん)の烏丸族で行単于の那楼(なろう)が、配下の名王を引き連れて祝賀に来た。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【?月】
この年、孫権(そんけん)が軍を西へ動かし、劉表配下の黄祖(こうそ)を攻め、その地の民を捕らえて連れ帰った。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)
【?月】「諸葛亮(しょかつりょう)の出廬(しゅつろ)」
この年、劉備が、襄陽(じょうよう)の隆中(りゅうちゅう)に諸葛亮を訪ね、自身のブレーンとして迎えた。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
【?月】
この年、長く南匈奴(なんきょうど)に捕らわれていた蔡琰(さいえん。蔡文姫〈さいぶんき〉)が、中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉中流域)に戻ってきた。
『正史 三国志8』の年表
特記事項
「この年(207年)に亡くなったとされる人物」
袁尚(えんしょう)・郭嘉(かくか)・張繡(ちょうしゅう)
「この年(207年)に生まれたとされる人物」
夏侯栄(かこうえい)・劉禅(りゅうぜん)
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