245年(魏の正始6年・蜀の延熙8年・呉の赤烏8年)の主な出来事

-245年- 乙丑(いっちゅう)
【魏】 正始(せいし)6年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉)
【蜀】 延熙(えんき)8年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 赤烏(せきう)8年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

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月別および季節別の主な出来事

【02月】
丁卯(ていぼう)の日(17日)
魏(ぎ)の南安郡(なんあんぐん)で地震が起こる。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)

【02月】
丙子(へいし)の日(26日)
魏の曹芳が、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の趙儼(ちょうげん)を司空(しくう)に任ずる。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【02月】「陸遜(りくそん)の死」
呉の丞相(じょうしょう)の陸遜が死去する。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

⇒?月
この年、呉では皇太子の孫和(そんか)と、弟で魯王(ろおう)の孫霸(そんは)との確執が深まる。この争いの中で張休(ちょうきゅう)が自殺に追い込まれ、陸遜も憂死した。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

⇒?月
呉の陸遜が「二宮の変」に心を痛め、孫権を切諫したものの、かえって問責され、憂悶(ゆうもん)の裡(うち)に死去する。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【06月】
魏の司空の趙儼が死去する。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【夏】
呉の宮門の柱に落雷があり、同じく南津(なんしん。都の建業〈けんぎょう〉の朱雀大路〈すざくおおじ〉の南端にあった秦淮河〈しんわいが〉に架かる橋)の標柱にも落雷があった。

また、長沙郡(ちょうさぐん)の茶陵県(やりょうけん)で河川の氾濫による洪水が起こり、民家200余戸を押し流した。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【07月】
呉の将軍の馬茂(ばぼう)らが謀反を企み、一族皆殺しとなる。
『三国志』(呉書・呉主伝)

『呉歴(ごれき)』…馬茂について。

⇒07月
魏からの降将である馬茂が、孫権の暗殺に失敗して一族皆殺しになる。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表

【08月】
丁卯の日(19日)
魏の曹芳が、太常(たいじょう)の高柔(こうじゅう)を司空に任ずる。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【?月】
癸巳(きし)の日(?日)
魏の曹芳が、左光禄大夫(さこうろくたいふ)の劉放(りゅうほう)を驃騎将軍に、右光禄大夫(ゆうこうろくたいふ)の孫資(そんし)を衛将軍(えいしょうぐん)に、それぞれ任ずる。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【08月】「呉太后(ごたいこう)の崩御(ほうぎょ)」
蜀の呉太后が崩御する。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

【08月】
呉の孫権が大赦を行う。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【11月】
魏の曹芳が、太祖(たいそ。曹操〈そうそう〉)の霊廟(れいびょう)に代々の先祖を併せて祭る。さらに、先に定めた建国の功臣21人も祭る。
『三国志』(魏書・斉王紀)

ここでいう功臣21人は以下の通り。曹真(そうしん)・曹休(そうきゅう)・夏侯尚(かこうしょう)・桓階(かんかい)・陳羣(ちんぐん)・鍾繇(しょうよう)・張郃(ちょうこう)・徐晃(じょこう)・張遼(ちょうりょう)・楽進(がくしん)・華歆(かきん)・王朗(おうろう)・曹洪(そうこう)・夏侯淵(かこうえん)・朱霊(しゅれい)・文聘(ぶんぺい)・臧霸(そうは)・李典(りてん)・龐徳(ほうとく)・典韋(てんい)・荀攸(じゅんゆう)。

典韋までの20人は243年7月に、これに荀攸が翌244年11月に加えられ、それぞれ太祖廟の堂前の広場に祭られていたもの。

【12月】
辛亥(しんがい)の日(5日)
魏の曹芳が詔(みことのり)を下し、亡き司徒(しと)の王朗が制定した『易伝(えきでん)』について、学生たちが官吏登用の受験科目として選べるようにする。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【12月】
乙亥(いつがい)の日(29日。大晦日〈おおみそか〉)
魏の曹芳が詔を下す。「あす(正月1日)群臣を会集させる際、太傅(たいふ。司馬懿〈しばい〉)は輿に乗ったまま上殿することを許す」というもの。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【12月】
蜀の大将軍(だいしょうぐん)の費禕(ひい)が漢中(かんちゅう)に赴き、守備の陣営を視察する。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【?月】
この年、魏の曹芳が詔を下し、倭(わ)の難升米(なんしょうまい)に黄幢(こうどう。黄色の旗)を授ける。黄幢は帯方郡(たいほうぐん)に託され、難升米に仮授された。
『三国志』(魏書・東夷伝〈とういでん〉)

難升米は、倭の女王である卑弥呼(ひみこ)に仕えた大夫(たいふ)。239年に、卑弥呼が魏に使者を派遣した際、大夫として使節団をひきいた。

【?月】
この年、呉の孫権が、校尉(こうい)の陳勲(ちんくん)を遣わし、屯田兵と工兵3万をひきいて句容中道(こうようちゅうどう)に運河を掘らせ、小其(しょうき)と曲阿(きょくあ)の雲陽(うんよう)および西城(せいじょう)を結ぶ。その地には商人たちの交易場を整備し、食糧倉庫を建てさせた。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【?月】
この年、蜀では蔣琬(しょうえん)と董允(とういん)が死去し、陳祗(ちんし)が侍中(じちゅう)に任ぜられる。また、宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)が朝政に口を出すようになった。
『正史 三国志8』の年表

この記事についてはよくわからなかった。『三国志』(蜀書・後主伝)および(蜀書・董允伝)には、蔣琬・董允とも翌246年に亡くなったという記事がある。

特記事項

「この年(245年)に亡くなったとされる人物」
呉氏(ごし)A ※劉備(りゅうび)の妻趙儼(ちょうげん)繆襲(びゅうしゅう)陸遜(りくそん)

「この年(245年)に生まれたとされる人物」
曹奐(そうかん)

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