239年(魏の景初3年・蜀の延熙2年・呉の赤烏2年)の主な出来事

-239年- 己未(きび)
【魏】 景初(けいしょ)3年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉) → 少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉)
【蜀】 延熙(えんき)2年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 赤烏(せきう)2年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

スポンサーリンク
スポンサーリンク

月別および季節別の主な出来事

【01月】「曹叡の崩御(ほうぎょ)と曹芳の即位」
丁亥(ていがい)の日(1日)
魏(ぎ)の曹叡が早馬を出し、遼東(りょうとう)の公孫淵(こうそんえん)討伐を終え、河内(かだい)まで戻っていた司馬懿(しばい)を召し寄せる。曹叡は危篤状態の中、司馬懿に後事を託し、曹爽(そうそう)とともに幼い息子(曹芳)を補佐するよう命じ、その日のうちに嘉福殿(かふくでん)で崩御した。このとき36歳だった。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉)

『魏略(ぎりゃく)』…司馬懿のもとに届けられた2通の詔書の話。

ここで「『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』にいう」として、「このとき皇太子(こうたいし)で斉王(せいおう)の曹芳は8歳。秦王(しんおう)の曹詢(そうしゅん)は9歳だった。ふたりとも帝(曹叡)のそばにいた」とある。

さらに、ここで「『魏書』にいう」として、「曹叡の遺体は九龍殿(きゅうりょうでん)の前殿に安置された」とある。

裴松之(はいしょうし)の考え…建安(けんあん)10(205)年生まれのはずの曹叡が、亡くなったとき36歳だったというのはおかしいとの指摘。実際よりひとつかふたつ多いという。

『魏書』…明帝(曹叡)の風姿や、その皇太子時代と即位後の行いについての話。

上の『魏書』のくだりには曹叡の皇太子時代とあるが、曹丕はなかなか太子を定めず、危篤に陥ってから初めて曹叡が皇太子に立てられたはず。曹叡の皇子時代ならいくらかわかるが、やや引っかかる。「曹叡が皇太子であったころ、朝臣と交際することはなく政治にも無関心で、ひたすら深く書籍に没頭するのみだった」とある。

加えて「孫盛(そんせい)はいう」として、明帝(曹叡)の容姿と行いについて触れている。

⇒丁亥の日
魏の曹叡が危篤になり、斉王の曹芳を皇太子に立てる。
『三国志』(魏書・斉王紀〈せいおうぎ〉)

⇒丁亥の日
魏の曹芳が帝位に即き大赦を行い、曹叡の郭皇后(かくこうごう)に皇太后(こうたいごう)の尊称を奉る。大将軍(だいしょうぐん)の曹爽と太尉(たいい)の司馬懿が曹芳の補佐にあたった。
『三国志』(魏書・斉王紀)

⇒丁亥の日
魏の曹芳が詔(みことのり)を下す。「現在造営中の宮殿の工事については先帝の遺詔によって中止とし、官庁に属する60歳以上の奴婢(ぬひ)を解放して平民とする」というもの。
『三国志』(魏書・斉王紀)

⇒01月
魏の暦が改訂され、前年の12月30日を景初3(239)年の元日とし、その日に曹叡が崩御。その際、曹叡は後事を司馬懿と曹爽に託した。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)の『三国志』年表

【01月】
癸丑(きちゅう)の日(27日)
魏の曹芳が曹叡を高平陵(こうへいりょう)に葬る。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【01月】
丁巳(ていし)の日(1日)
呉(ご)で地震が起こる。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・歩騭伝〈ほしつでん〉)

ここは原文に1月1日とだけあり、干支(かんし)についての記述はなかった。この時期、魏の暦が繰り上がっている関係から、記事の位置としてはここに入ると思われる。おそらく丁巳の日だろう。

【02月】
魏の曹芳に西域(せいいき)から「火浣布(かかんぷ)」が献上される。曹芳は大将軍(曹爽)と太尉(司馬懿)に詔を下し、その効果を試す実験に立ち会わせ百官に披露した。
『三国志』(魏書・斉王紀)

『異物志(いぶつし)』…「火浣布」についての話。

『傅子(ふし)』…漢の桓帝(かんてい)の時代、大将軍の梁冀(りょうき)が「火浣布」で単衣(ひとえ)を作った話。

『捜神記(そうじんき)』…「火浣布」についての話。「漢代のこと、西域は昔からこの布を献上していたが、中途で長い間途絶したため、魏の初めに至ると人々はその存在を疑うようになった。文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉)は『典論(てんろん)』の中で『火浣布なるものはありえない』という考えを著した」

「明帝(曹叡)が即位したあと『典論』は不朽の金言であるとして、これを石に刻ませ、霊廟(れいびょう)の門外と太学(たいがく)に石経(せきけい。熹平石経〈きへいせきけい〉)と並べて立てた(230年2月のこと)

「しかし、このときに至って西域の使者が到来し、曹芳に『火浣布』を献上したため、石に刻んだ『典論』のこの部分(火浣布なるものはありえない)を削り落としたが、天下の人々の笑い物になった」

裴松之の考え…その昔、私が征西軍に従って洛陽(らくよう)に至り、遺物を見て歩いた際、『典論』を刻んだ石がまだ太学にあったのを見たが、霊廟の門外にはなかった。

このことを老人たちに質問したところ、「晋(しん)が魏から禅譲を受けたばかりのころは、そのまま魏の霊廟を使用したためこの石を太学に移したもので、太学と霊廟の門外の2か所に立っていたのではない」と言っていた。しかし、この言葉は間違っているのではないかと密かに考える。

『神異経(しんいけい)』…南の果ての外にあったという火の山と、その火の中に棲んでいたという鼠(ネズミ)の話。

【01月】
癸未(きび)の日(27日)
呉で再び地震が起こる。
『三国志』(呉書・歩騭伝)

ここも原文に1月27日とだけあり、干支についての記述はなかった。上の地震の記事と同じで、こちらは癸未の日にあたると思われる。

【01月】
呉の孫権が詔を下す。郎吏(ろうり)の重要性について触れ、「今後、五官と左右の三署の中郎将(ちゅうろうしょう)を選ぶにあたっては人材登用のための4つの科目を適用し、根も葉もない風評などで箔を付けたような人物を任用することがないようにせよ」というもの。
『三国志』(呉書・呉主伝〈ごしゅでん〉)の裴松之注に引く『江表伝(こうひょうでん)』

『正史 三国志6』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注によると「元来『論語(ろんご)』(先進篇〈せんしんへん〉)に、人物の才能を徳行(とっこう)、言語、政事、文学の4つに分類していることに出るものだが、漢代(かんだい)にはこれを変形させて、質樸(しつぼく)、敦厚(とんこう)、遜譲(そんじょう)、節倹(せつけん)など4つの科目で人材登用を行った」という。

【02月】
丁丑(ていちゅう)の日(21日)
魏の曹芳が詔を下し太尉の司馬懿を太傅(たいふ)に任ずる。さらに節(せつ。権限を示すしるし)を持って軍を統率し、内外の諸軍事を取り仕切ることに関しては今まで通りとした。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【03月】
魏の曹芳が征東将軍(せいとうしょうぐん)の満寵(まんちょう)を太尉に任ずる。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【03月】
蜀(しょく)の劉禅が蔣琬(しょうえん)を大司馬(だいしば)に任ずる。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

【03月】
呉の孫権が、使者として羊衜(ようどう)と鄭胄(ていちゅう)、さらに将軍の孫怡(そんい)を遼東に遣わし、魏の張持(ちょうじ)と高慮(こうりょ)らを討たせ、その配下の男女を捕虜にする。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【春】
呉の孫権のもとに「零陵(れいりょう)で甘露(かんろ)が降った」との報告が届く。
『三国志』(呉書・呉主伝)

この記事は時期がはっきりしなかった。3月と5月の間に置かれているので「夏」としたほうがいいのかもしれない。

【06月】
遼東の東沓県(とうとうけん)の官民が、海を渡って魏の斉郡(せいぐん)の辺境に住みつく。このため曹芳はもとの縦城県(しょうじょうけん)を新沓県(しんとうけん)として、それらの移民を住まわせた。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【05月】
呉の孫権が沙羡(さい)に城壁を築く。
『三国志』(呉書・呉主伝)

地名の沙羡について、沙羡と沙羨(させん)は各所で混用が見られる。このサイトでは『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)に従い沙羡としておく。

【07月】
魏の曹芳が初めて朝会に出席し公卿(こうけい)の上奏を聴く。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【08月】
魏の曹芳が大赦を行う。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【10月】
魏の曹芳が鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の黄権(こうけん)を車騎将軍(しゃきしょうぐん)に任ずる。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【10月】
呉の将軍の蔣秘(しょうひ)が南へ軍を進め、呉に反抗する異民族を討伐する。この際、蔣秘配下の都督(ととく)の廖式(りょうしょく)は臨賀太守(りんがたいしゅ)の厳綱(げんこう)らを殺害し、勝手に平南将軍(へいなんしょうぐん)を名乗った。

廖式は弟の廖潜(りょうせん)とともに零陵郡(れいりょうぐん)や桂陽郡(けいようぐん)を攻め、交州(こうしゅう)の蒼梧(そうご)や鬱林(うつりん)といった諸郡にも動揺を与えた。この一味に加わる者も数万人に上った。そこで将軍の呂岱(りょたい)と唐咨(とうし)が討伐に差し向けられ、1年余りですべて討ち破った。
『三国志』(呉書・呉主伝)

⇒12月
呉の廖式が反乱を起こし、零陵や桂陽などの郡を攻める。騒動は交州の諸郡にも及び、呂岱がその討伐にあたった。
『正史 三国志8』(小南一郎訳 ちくま学芸文庫)の年表

【12月】
魏の曹芳が詔を下す。「烈祖(れっそ。曹叡)は正月に天下を見捨てられ(正月に崩御したという意味)、臣下や子どもらはいつまでもそのご命日の哀しみを抱き続けている」とし、「それゆえ再び夏(か)王朝の暦を使用せよ」というもの。

これにより建寅(けんいん)の月(1月)を正始(せいし)元年正月とし、建丑(けんちゅう)の月(12月)を後の12月とすることになった。
『三国志』(魏書・斉王紀)

後の12月について、『正史 三国志1』(今鷹真〈いまたか・まこと〉、井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注によると「明帝(曹叡)は景初3(239)年の正月に崩じ、斉王(曹芳)は翌年に暦を変更し、その正月に即位した。新暦の正月は旧暦では2月にあたる。したがって旧暦の正月と新暦の正月が重なることになり具合が悪い。そのため旧暦の正月を後の12月として、12月を二度置いたのである」という。

こういった暦の話は難しい。文献によっても、この部分の説明に食い違いが見られるようだ。

後の12月についてはユリウス暦と魏の景初3(239)年・蜀の延熙2年・呉の赤烏2年(対照表)を参照。(2020/7/22追記)

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
正史年表 230年代
このページをシェアする
「かぶらがわ」をフォローする
今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

コメント

タイトルとURLをコピーしました