-214年- 甲午(こうご)
【漢】 建安(けんあん)19年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】
曹操(そうそう)が、初めて籍田(せきでん)を耕す。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)
【?月】
南安(なんあん)の趙衢(ちょうく)と漢陽(かんよう)の尹奉(いんほう)らが馬超(ばちょう)を攻め、その妻子の首をさらす。馬超は漢中(かんちゅう)に逃走した。
『三国志』(魏書・武帝紀)
⇒01月
馬超が、曹操配下の楊阜(ようふ)らに敗れ、張魯(ちょうろ)のもとに身を寄せる。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表
【?月】
韓遂(かんすい)が金城(きんじょう)に移り、氐族(ていぞく)の王の千万(せんばん)の部落に入る。そして、韓遂は羌族(きょうぞく)の1万余騎をひきい、曹操配下の夏侯淵(かこうえん)と戦うも、散々に討ち破られて西平(せいへい)に逃走した。
夏侯淵は、諸将とともに興国(こうこく)を攻め取る。その後、安東(あんとう)と永陽(えいよう)の両郡が廃止された。
『三国志』(魏書・武帝紀)
⇒春
曹操配下の夏侯淵が、略陽(りゃくよう)で韓遂を討ち破る。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
【02月】
癸亥(きがい)の日(12日)
献帝の使者として派遣された行太常事(こうたいじょうじ。太常代理)・大司農(だいしのう)・安陽亭侯(あんようていこう)の王邑(おうゆう)と宗正(そうせい)の劉艾(りゅうがい)が、魏公(ぎこう)の宗廟(そうびょう)で二貴人(にきじん。貴人は皇妃の位のひとつ。ここでは曹操のふたりの娘のこと)に印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を授ける。
甲子(こうし)の日(13日)
魏公の宮殿の延秋門(えんしゅうもん)に至り、二貴人を迎えて車に乗せる。
癸酉(きゆう)の日(22日)
二貴人が、洧倉(いそう)の城中に到着する。
乙亥(いつがい)の日(24日)
二貴人が宮に入る。
『三国志』(魏書・武帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『献帝起居注(けんていききょちゅう)』
⇒?月
この年、献帝が、先に迎えた曹操の3人の娘である曹憲(そうけん)・曹節(そうせつ)・曹華(そうか)を貴人とした。
『後漢書(ごかんじょ)』(曹皇后紀〈そうこうごうぎ〉)
【03月】
献帝が、魏公(曹操)の位を諸侯王の上に置くこととし、改めて金璽(きんじ)・赤紱(せきふつ。璽に付ける赤色の紐)・遠遊冠(えんゆうかん)を授ける。
『三国志』(魏書・武帝紀)
★ここで「『献帝起居注』にいう」として、「左中郎将(さちゅうろうしょう)の楊宣(ようせん)と亭侯(ていこう)の裴茂(はいぼう)に命じ、節(せつ。使者のしるし)と印を持たせて遣わし、これらの品々を魏公の曹操に授けた」とある。
【?月】
劉備(りゅうび)配下の諸葛亮(しょかつりょう)が、荊州(けいしゅう)に関羽(かんう)を留めたうえ、張飛(ちょうひ)や趙雲(ちょううん)とともに蜀(しょく)に入る。
『正史 三国志8』の年表
【04月】
日照りがあった。
『後漢書』(献帝紀〈けんていぎ〉)
★ここでは具体的な場所についての記述はなかった。
【05月】
孫権(そんけん)が軍を進め、魏の皖城(かんじょう)を攻める。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)
【05月】
水害があった。
『後漢書』(献帝紀)
★ここでは具体的な場所についての記述はなかった。
【閏05月?】
孫権が皖城を降し、魏の廬江太守(ろこうたいしゅ)である朱光(しゅこう)と参軍(さんぐん)の董和(とうか)、さらに男女数万人を捕虜にする。
『三国志』(呉書・呉主伝)
⇒閏04月
孫権が皖を攻破し、配下の呂蒙(りょもう)を廬江太守に任ずる。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表
★ここでは閏05月と閏04月という違いがあり、はっきりしなかった。この年は閏04月とするのが正しいと思われるが、原文には、5月に孫権が皖城を攻めた記事があり、閏月にこれを攻略した記事が続いている。どういうことなのかイマイチわからず。
★紙幅の都合なのかもしれないが、『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄著 潮書房光人社)の『三国志』年表では、この記事が削除されていた。
【夏】「龐統(ほうとう)の死と劉璋(りゅうしょう)の降伏」
劉備が雒城(らくじょう)を陥し、さらに軍を進めて成都(せいと)を包囲する。数十日後、劉璋は城を出て降伏した。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)
⇒?月
劉備が、雒城の包囲戦中に龐統を戦死させつつも、やっとのことで雒城を陥す。劉備は、さらに軍を進めて成都を包囲した。
『正史 三国志8』の年表
⇒05月
劉璋が劉備に降伏する。
『正史 三国志8』の年表
【?月】
劉備が益州牧(えきしゅうぼく)の職務にあたり、諸葛亮を軍師将軍(ぐんししょうぐん)に任ずる。
『正史 三国志8』の年表
【07月】
曹操が孫権討伐に向かう。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【07月】
魏の尚書令(しょうしょれい)の荀攸(じゅんゆう)が死去する。
『正史 三国志8』の年表
【?月】
曹操が夏侯淵に、隴西(ろうせい)で河首平漢王(かしゅへいかんおう)を自称していた宋建(そうけん)の討伐を命ずる。
『三国志』(魏書・武帝紀)
★さらにこのくだりで、「宋建は河首平漢王を自称し、枹罕(ふかん)に軍勢を集めて改元し、独自に百官を設置してから30余年が経過していた」ともある。
★地名については、枹罕と抱罕(ほうかん)が混用されており、はっきりしない。
★『後漢書』でも枹罕とあった。
【10月】
曹操配下の夏侯淵が興国から出撃し、枹罕を陥して宋建を斬る。これにより涼州(りょうしゅう)が平定された。
『三国志』(魏書・武帝紀)
⇒10月
曹操が部将の夏侯淵を遣わし、枹罕県で宋建を討ち破り、これを生け捕る。
『後漢書』(献帝紀)
★李賢注(りけんちゅう)によると「枹罕は県であり、金城郡(きんじょうぐん)に属する。唐(とう)の河州県(かしゅうけん)である」という。また「『三国志』(魏書・夏侯淵伝)に『夏侯淵は字(あざな)を妙才(みょうさい)といい、沛国(はいこく)譙県(しょうけん)の人である』とある」ともいう。
★上の李賢注について『全譯後漢書 第2冊』の補注によると、「『三国志』(魏書・夏侯淵伝)には『夏侯淵は字を妙才といい、惇(とん。夏侯惇)の族弟である』とあり、夏侯淵が沛国譙県の人であることは、『三国志』(魏書・夏侯惇伝)のほうに記されている」という。
⇒10月
曹操配下の張郃(ちょうこう)が、河西(かせい)の諸羌(しょきょう)を降す。これにより隴右(ろうゆう)は曹操の手に落ちた。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表
【10月】
曹操が合肥(ごうひ)から帰途に就く。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【11月】「伏皇后(ふくこうごう)と一族の死」
伏皇后が廃位されて亡くなり、兄弟もみな処刑される。
以前に伏皇后は、父であるもとの屯騎校尉(とんきこうい)の伏完(ふくかん)に送った手紙の中で、「天子(てんし)は、先に董承(とうしょう)が処刑されたことで、曹操に恨みを抱いておられます」と書き、甚だ醜悪な文辞を連ねたことがあった。
これが発覚したため、そのかどで后位を廃された。
『三国志』(魏書・武帝紀)
⇒11月
丁卯(ていぼう)の日(20日)
曹操が伏皇后を殺害し、一族やふたりの皇子も殺害する。
『後漢書』(献帝紀)
⇒?月
建安19(214)年に至り、伏皇后が曹操を討とうと画策していたことが漏れる。曹操は激怒し、献帝を脅して伏皇后を廃位させた。
伏皇后は引っ立てられて暴室(ぼうしつ)に送られ、幽閉されたまま亡くなった。彼女の生んだふたりの皇子は、酖毒(ちんどく)で殺害された。
伏氏は、位にあること20年だったが、このとき連座した兄弟や宗族は100余人に上り、母の盈(えい)ら19人は、涿郡(たくぐん)に流罪となった。
『後漢書』(伏皇后紀〈ふくこうごうぎ〉)
★李賢注によると「『山陽公載記(さんようこうさいき)』に、『劉備は蜀にあってこれを聞き、喪を発した』とある」という。
【12月】
曹操が孟津(もうしん)に到着する。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【12月】
献帝が曹操に、旄頭(ぼうとう。天子の旗に付ける旄牛〈から牛。牛の一種〉の飾り)を付け、宮殿に鍾虚(しょうきょ。鐘を吊り下げる台)を設けることを許す。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【12月】「曹操の求賢令(再)布告」
乙未(いつび)の日(19日)
曹操が布告を出す。「そもそも品行の正しい人物は、必ずしも行動力があるとは言えず、行動力のある人物は、必ずしも品行が正しいとは言えない」として、「士人に短所があるからといって、安易に無視することのないように」と、有司(担当官吏)に注意を促すもの。
また「刑罰は民の生命に関わる重要事であるが、軍中の裁判に携わっている者の中には、その役目にふさわしくない人物がいる」として、「法制に十分明らかな者を選んで、刑罰を担当させるように」と命じ、理曹掾属(りそうえんぞく)の官を設置した。
『三国志』(魏書・武帝紀)
★曹操は先の210年の春にも、今回のような「求賢令」を布告している。
【?月】
この年、曹操に敗れた後、漢中へ逃れていた馬超が劉備に降った。
『三国志全人名事典』(『中国の思想』刊行委員会編著 徳間書店)の関連略年表
特記事項
「この年(214年)に亡くなったとされる人物」
蒯越(かいえつ)・荀攸(じゅんゆう)・田疇(でんちゅう)・龐統(ほうとう)・路粋(ろすい)?
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