-210年- 庚寅(こういん)
【漢】 建安(けんあん)15年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)
月別および季節別の主な出来事
【春】「曹操(そうそう)の『求賢令』布告」
曹操が布告を出す。「才能のある者がいるなら、その地位や身分を問わずに推薦してほしい」というもの。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)
★曹操は後の214年12月にも、今回のような「求賢令」を布告している。
【02月】
乙巳(いっし)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)
【?月】
劉備(りゅうび)が、自ら京(けい)に赴いて孫権(そんけん)と会見し、荊州(けいしゅう)の借用を申し入れる。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
【冬】
曹操が銅雀台(どうじゃくだい)を築く。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【12月】
己亥(きがい)の日(?日)
曹操が布告を出す。自身のこれまでの行動を振り返り、「江湖(こうこ)の地域(長江〈ちょうこう〉の流域)がまだ鎮まらない以上、官位を譲るわけにはいかないが、領地については辞退することが可能だ」というもの。
曹操は、陽夏(ようか)・柘(しゃ)・苦(こ)の3県2万戸を返上し、武平県(ぶへいけん)の1万戸だけを食むことを申し出た。
『三国志』(魏書・武帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『魏武故事(ぎぶこじ)』
【?月】「周瑜(しゅうゆ)の死」
孫権配下の周瑜が、蜀(しょく)の経略をもくろむが、その準備中に死去する。
『正史 三国志8』の年表
【?月】
この年、孫権が、豫章郡(よしょうぐん)を分割して鄱陽郡(はようぐん)を設置する。さらに長沙郡(ちょうさぐん)を分割して漢昌郡(かんしょうぐん)を設置し、魯粛(ろしゅく)を漢昌太守(かんしょうたいしゅ)に任じて陸口(りくこう)に駐留させた。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)
⇒?月
この年、孫権が、(豫章郡から鄱陽県を)分割して鄱陽郡を設置し、(鄱陽)県をその治所とした。
『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)
【?月】
この年、孫権が歩騭(ほしつ)を交州刺史(こうしゅうしし)に任ずる。
歩騭の着任後、(この地の豪族である)士燮(ししょう)は、兄弟ともども孫権の支配下に入ったが、呉巨(ごきょ)は服従しない態度を示したため、歩騭は呉巨を斬った。孫権は、士燮に加官して左将軍(さしょうぐん)とした。
『三国志』(呉書・士燮伝〈ししょうでん〉)
特記事項
「この年(210年)に亡くなったとされる人物」
周瑜(しゅうゆ)・曹純(そうじゅん)・張猛(ちょうもう)
「この年(210年)に生まれたとされる人物」
阮籍(げんせき)
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