224年(魏の黄初5年・蜀の建興2年・呉の黄武3年)の主な出来事

-224年- 甲辰(こうしん)
【魏】 黄初(こうしょ)5年 ※文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉)
【蜀】 建興(けんこう)2年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 黄武(こうぶ)3年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

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月別および季節別の主な出来事

【春】
蜀(しょく)の劉禅が、農耕に努めて穀物を増産し、越嶲(えっすい)への通路にあたる関門を閉ざして民を休息させる。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

【01月】
魏(ぎ)の曹丕が詔(みことのり)を下す。「反逆の企てと大逆罪の場合は密告してもよいが、そのほかの場合は密告に耳を貸したり、取り調べをしてはならない」というもの。

「大胆にも、でたらめの密告をする者があれば、密告された者の罪をもって、密告した者を断罪する」とした。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文帝紀〈ぶんていぎ〉)

【03月】
魏の曹丕が、許昌(きょしょう)から洛陽宮(らくようきゅう)に還幸する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【04月】
魏の曹丕が、太学(たいがく)を建てて五経(ごきょう)の試験の法を制定し、『春秋(しゅんじゅう)』の穀梁博士(こくりょうはくし)の官を設置する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

『正史 三国志1』(今鷹真〈いまたか・まこと〉、井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注によると、「それまでは、易(えき)の施氏(しし)・孟氏(もうし)・梁丘氏(りょうきゅうし)・京氏(けいし)の四家、尚書(しょうしょ)の欧陽氏(おうようし)・大夏侯氏(だいかこうし)・小夏侯氏(しょうかこうし)の三家、詩の斉氏(せいし)・魯氏(ろし)・韓氏(かんし)の三家、礼(らい)の大戴氏(だたいし)・小戴氏(しょうたいし)の二家、春秋の公羊氏(くようし)・厳顔氏(げんがんし)の二家、合わせて十四家の学が、学官として博士を置かれていた」という。

「春秋の厳顔氏」というのがイマイチわからない。『後漢書(ごかんじょ)』(章帝紀〈しょうていぎ〉)の李賢注(りけんちゅう)によると、「厳氏とは厳彭祖(げんほうそ)、顔氏とは顔安楽(がんあんらく)をいう」とあった。

また、その部分の訳者注によると、「顔安楽と厳彭祖は、ともに胡母生(こぼせい)の公羊学を受け継ぐ眭孟(すいもう)に学び、独自の所見を加えて一家の学を為した」という。ならば、ふたりをまとめて厳顔氏とされていたのかも?

【05月】
魏の担当官吏が曹丕に上奏する。「公卿(こうけい)が朔(さく。1日)と望(ぼう。15日)の日に参朝した際、疑事を上奏し、政治に関する重大事を聴取して判断を下し、その得失について議論し、判定されるようしていただきたい」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【夏】
呉(ご)の孫権が、輔義中郎将(ほぎちゅうろうしょう)の張温(ちょうおん)を蜀に遣わす。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

⇒?月
呉と蜀の同盟が成立する。
『三国志全人名事典』(『中国の思想』刊行委員会編著 徳間書店)の関連略年表

【07月】
魏の曹丕が東方へ巡幸し、許昌宮に到着する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【08月】
魏の曹丕が水軍を編制し、自ら龍舟(りょうしゅう)に乗り、蔡河(さいが)と潁水(えいすい)を通って淮水(わいすい)に進み、寿春(じゅしゅん)に行幸する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【08月】
魏の曹丕が、揚州(ようしゅう)の境域にいる将兵や民のうち、5年以下の刑にあたる罪人をみな赦免する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【08月】
呉の孫権が恩赦を行い、死罪の者の罪一等を減ずる。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【09月】
魏の曹丕が広陵(こうりょう)まで進み、青州(せいしゅう)・徐州(じょしゅう)の両州に免赦令を下し、守備にあたる諸将を変更する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

⇒09月
魏の曹丕が、広陵まで軍を進めたものの、攻め取るのは難しいと判断して軍を還す。
『三国志』(呉書・呉主伝)

⇒09月
魏の曹丕が、自ら軍をひきいて広陵まで進む。しかし、呉の徐盛(じょせい)が築いた疑城に驚いて軍を退く。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【10月】
乙卯(いつぼう)の日(6日)
太白星(たいはくせい。金星)が昼間に現れる。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【10月】
魏の曹丕が許昌宮に還幸する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【10月】
癸酉(きゆう)の日(24日)
魏の曹丕が詔を下す。「いま、事は多くて民は少なく、上下ともに法によって苦しめられており、民は手足を置く場所もないありさまである」と述べ、「広く刑罰の軽減について論議し、民に恩恵を与えよ」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『魏書』

【11月】
庚寅(こういん)の日(11日)
魏の曹丕が、飢饉(ききん)に陥った冀州(きしゅう)に使者を遣わし、官倉を開いて住民を救済させる。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【11月】
戊申(ぼしん)の日(29日)、晦(かい)
日食が起こる。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【12月】
魏の曹丕が詔を下す。「先王(古代の聖王)が礼を制定されたのは、孝道を明らかにし、先祖に仕えるためである。その最高のものは、天地の祭祀である郊と社、その次が先祖を祭る宗廟(そうびょう)の祭祀である。しかし、三辰(さんしん。日・月・星)・五行(木・火・土・金・水)・名山・大川はこの類いでなく、祀典(してん)の例に入らない」とし、「今後、あえて祭るべきでない祭祀を設け、巫祝(みこ)の言葉を用いる者に対しては、すべて道に外れた行為として裁く」とした。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【?月】
この年、魏の曹丕が天淵池(てんえんち)を掘らせた。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【?月】
この年、呉の曁豔(きえん)が、官吏の粛清を企てる。しかし、曁豔は反対派のため自殺に追い込まれ、巻き添えを食った張温も失脚した。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(224年)に亡くなったとされる人物」
杜畿(とき)朱治(しゅち)

「この年(224年)に生まれたとされる人物」
孫和(そんか)李密(りみつ)劉璿(りゅうせん)

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