-232年- 壬子(じんし)
【魏】 太和(たいわ)6年 ※明帝(曹叡〈そうえい〉)
【蜀】 建興(けんこう)10年 ※後主(劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 嘉禾(かか)元年 ※大帝(孫権〈そんけん〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】「孫慮(そんりょ)の死」
呉の孫権の息子で、建昌侯の孫慮が薨去(こうきょ)する。
『三国志』(呉書・呉主伝)
⇒01月
呉の孫権の末子である孫慮が死去する。その後、皇太子の孫登(そんとう)が、武昌から建業に移った。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
【02月】
魏の曹叡が詔を下す。「改めて魏の諸王侯に領地を与え、みな一郡をもって領国とさせる」というもの。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【02月】
魏の曹叡が、叔父の曹植(そうしょく)を陳王に封ずる。領邑は陳郡の4県、合わせて3,500戸とされた。
『三国志』(魏書・陳思王植伝)
【03月】
癸酉(きゆう)の日(7日)
魏の曹叡が東方へ巡幸し、通りかかった地の老人、連れ合いのない男女、孤児などを慰問し、穀物と白絹を下賜する。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【03月】
乙亥(いつがい)の日(9日)
月が軒轅大星(けんえんたいせい。獅子座のアルファ星)を犯す。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【03月】
呉の孫権が、将軍の周賀(しゅうが)と校尉の裴潜(はいせん)を遣わし、海路で遼東に向かわせる。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【04月】
壬寅(じんいん)の日(6日)
魏の曹叡が許昌宮に行幸する。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【04月】
魏の曹叡が、初めて霊廟に新鮮な果物をお供えする。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【05月】
魏の曹叡の息子である曹殷(そういん)が薨去する。曹叡は領地を追贈し、安平哀王と諡(おくりな)した。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【07月】
魏の曹叡が、衛尉の董昭(とうしょう)を司徒に任ずる。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【09月】
魏の曹叡が摩陂(まひ)に行幸し、許昌宮を修理させ、景福殿と承光殿を造営する。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【10月】
魏の殄夷将軍(てんいしょうぐん)の田豫(でんよ)が、成山で呉の周賀を討ち取る。
『三国志』(魏書・明帝紀)
⇒09月
魏の田豫が、呉の孫権が遼東に遣わした周賀と裴潜を迎え撃ち、成山で周賀を斬る。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【10月】
魏の遼東太守の公孫淵が、校尉の宿舒(しゅくじょ)と郎中令の孫綜(そんそう)を呉に遣わし、帰属して藩国になる旨を伝え、併せて貂(テン)の毛皮と馬を献上する。孫権は大いに喜び、公孫淵に爵位を授けた。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【11月】
丙寅(へいいん)の日(4日)
太白星(金星)が昼間に現れる。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【11月】
彗星が翼(よく。コップ座)に現れ、太微(星垣〈せいえん〉。しし座の西端にある10星)の上将星に接近する。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【11月】「曹植の死」
庚寅(こういん)の日(28日)
魏の陳王の曹植が薨去する。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【12月】
魏の曹叡が許昌宮に還幸する。
『三国志』(魏書・明帝紀)
【?月】
この年、蜀の諸葛亮(しょかつりょう)が兵士を休養させ、黄沙で農耕に努め、流馬木牛(牛馬をかたどった、機械仕掛けで動く車。詳細は不明)を完成させ、兵士の教練や演習を行った。
『三国志』(蜀書・後主伝)
【?月】
この年、張華(ちょうか)が生まれた(~300年)。
『正史 三国志8』の年表
特記事項
「この年(232年)に亡くなったとされる人物」
曹殷(そういん)・曹洪(そうこう)・曹植(そうしょく)・孫慮(そんりょ)A ※孫権(そんけん)の息子
「この年(232年)に生まれたとされる人物」
曹芳(そうほう)
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