190年(漢の初平元年)の主な出来事

-190年- 庚午(こうご)
【漢】 初平(しょへい)元年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)

月別および季節別の主な出来事

【01月】 「反董卓(とうたく)連合軍の結成」
後将軍(こうしょうぐん)の袁術(えんじゅつ)、冀州牧(きしゅうぼく)の韓馥(かんふく)、豫州刺史(よしゅうしし)の孔伷(こうちゅう)、兗州刺史(えんしゅうしし)の劉岱(りゅうたい)、河内太守(かだいたいしゅ)の王匡(おうきょう)、勃海太守(ぼっかいたいしゅ)の袁紹(えんしょう)、陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)の張邈(ちょうばく)、東郡太守(とうぐんたいしゅ)の橋瑁(きょうぼう)、山陽太守(さんようたいしゅ)の袁遺(えんい)、済北国相(せいほくこくしょう)の鮑信(ほうしん)が同時に挙兵。

それぞれ数万の軍勢を擁しており、袁紹を盟主に推挙した。このとき曹操(そうそう)は「奮武将軍(ふんぶしょうぐん)」を兼務した。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

⇒01月
山東(さんとう)地方の州郡で董卓討伐の義兵が決起する。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)

訳者補注(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「勃海太守の袁紹を盟主とする『反董卓連合軍』への参加者は、後将軍の袁術、冀州牧の韓馥、豫州刺史の孔伷、兗州刺史の劉岱、陳留太守の張邈、河内太守の王匡、東郡太守の橋瑁、済北国相の鮑信、青州刺史(せいしゅうしし)の焦和(しょうか)らである」という。

【01月】
辛亥(しんがい)の日(10日)
献帝が大赦を行う。
『後漢書』(献帝紀)

【02月】 「劉辯(りゅうべん)の薨去(こうきょ)」
癸酉(きゆう)の日(3日)
相国(しょうこく)の董卓が弘農王(こうのうおう)の劉辯を殺害する。
『後漢書』(献帝紀)

⇒?月
董卓は弘農王を閣上に置き、郎中令(ろうちゅうれい)の李儒(りじゅ)に酖毒(ちんどく)を勧めさせた。(弘農王は)ついに薬を飲んで薨じた。このとき18歳だった。
『後漢書』(何皇后紀〈かこうごうき〉)

【02月】
白波(はくは)の賊が東郡(とうぐん)に侵攻する。
『後漢書』(献帝紀)

【02月】
乙亥(いつがい)の日(5日)
献帝が太尉(たいい)の黄琬(こうえん)と司徒(しと)の楊彪(ようひゅう)を罷免する。
『後漢書』(献帝紀)

【02月】
庚辰(こうしん)の日(10日)
董卓が城門校尉(じょうもんこうい)の伍瓊(ごけい)と督軍校尉(とくぐんこうい)の周珌(しゅうひつ)を殺害する。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると、「周珌の『珌』の音は『必(ヒツ)』。『東観漢記(とうかんかんき)』に、『周珌は豫州刺史であった周慎(しゅうしん)の息子である』とある」。「『続漢書(しょくかんじょ)』と『魏志(ぎし。三国志の魏書)』は、ともに『周珌』を『周ヒ(しゅうひ。比+必)』に作っている。(その場合の『ヒ〈比+必〉』の)音は『秘(ヒ)』である」ともいう。

【02月】
献帝が光禄勲(こうろくくん)の趙謙(ちょうけん)を「太尉」に、太僕(たいぼく)の王允(おういん)を「司徒」に、それぞれ任ずる。
『後漢書』(献帝紀)

【02月】 「董卓の長安(ちょうあん)遷都」
董卓が袁紹らの挙兵を聞き、献帝を擁して長安に遷都する。董卓自身はしばらく洛陽(らくよう)に留まっていたが、結局は宮室を焼き払うことになった。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒02月
丁亥(ていがい)の日(17日)
献帝が都を洛陽から長安に遷す。董卓は洛陽の住民を追い立て、ことごとく西方の関中(かんちゅう)に移らせる一方、自らは洛陽に留まり畢圭苑(ひつけいえん)に駐屯した。
『後漢書』(献帝紀)

【02月】
壬辰(じんしん)の日(22日)
白虹(はくこう)が日を貫く。
『後漢書』(献帝紀)

訳者補注(渡邉義浩氏)によると、「白虹が日を貫くことは天下騒乱の不吉な予兆。天子(てんし)の命が絶え、大臣が災いをなし、主将は殺される」という。

【02月】
もとの中常侍(ちゅうじょうじ)の趙忠(ちょうちゅう)が、あらかじめ造営していた墓室に弘農王の劉辯を葬る。劉辯は「懐王(かいおう)」と諡(おくりな)された。
『後漢書』(何皇后紀)

【03月】
乙巳(いつし)の日(5日)
献帝が長安に入り、未央宮(びおうきゅう)に行幸する。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると、「未央宮は(漢〈かん〉の高祖〈こうそ〉劉邦〈りゅうほう〉の功臣だった)蕭何(しょうか)が造営したものである。張璠(ちょうはん)の『後漢紀(ごかんき)』に、『(献帝が)まさに(長安の未央)宮に入ろうとした日、大雨が降り、昼なのに空は暗く、長安宮に雉(キジ)が飛び込んだ』とある」という。

【03月】
己酉(きゆう)の日(9日)
董卓が洛陽の宮廟(きゅうびょう)や民家を焼く。
『後漢書』(献帝紀)

【03月】
戊午(ぼご)の日(18日)
董卓が太傅(たいふ)の袁隗(えんかい)と太僕の袁基(えんき)を殺害したうえ、その一族も皆殺しにする。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると、「袁隗は袁紹の叔父、袁基は袁術と母を同じくする兄である。董卓は山東で(反董卓の)兵が起こり、袁紹や袁術がその盟主となっていたことにより、その親族を誅殺したのである」という。「『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』に、『(このとき)嬰児(えいじ)以上の男女50数人がみな投獄されて死んだ』とある」ともいう。

【05月】
司空(しくう)の荀爽(じゅんそう)が死去する。
『後漢書』(献帝紀)

【06月】
辛丑(しんちゅう)の日(?日)
献帝が光禄大夫(こうろくたいふ)の种払(ちゅうふつ)を「司空」に任ずる。
『後漢書』(献帝紀)

【06月】
このころ、大鴻臚(だいこうろ)の韓融(かんゆう)、少府(しょうふ)の陰脩(いんしゅう)、執金吾(しつきんご)の胡母班(こぼはん)、将作大匠(しょうさくたいしょう)の呉脩(ごしゅう)、越騎校尉(えっきこうい)の王瓌(おうかい)らが関東の地を収攬(しゅうらん)していたが、後将軍の袁術と河内太守の王匡が彼らを捕らえて殺害する。ただ、韓融だけは免れた。
『後漢書』(献帝紀)

訳者補注(渡邉義浩氏)によると、「『後漢書』(袁紹伝〈えんしょうでん〉)では『陰脩』を『陰循(いんじゅん)』に作る」という。

【06月】
董卓が「五銖銭(ごしゅせん)」を廃止し、新たに「小銭(しょうせん)」を鋳造する。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると、「光武帝(こうぶてい)が(漢を)中興すると、王莽(おうもう)の(貨幣である)『貨泉(かせん)』(の使用)をやめ、改めて(前漢の武帝〈ぶてい〉期以来の)『五銖銭』を用いた」という。

訳者補注(渡邉義浩氏)によると、「五銖銭は銅銭。前漢の武帝の元狩(げんしゅ)4(前119)年に初めて鋳造され、隋代(ずいだい)まで使用された」という。

同じく訳者補注(渡邉義浩氏)によると、「貨泉は王莽が鋳造した丸い通貨。中央に方形の穴があり、その穴を挟んで『貨泉』のふた文字が左書きされている」という。

【?月】
「遼東太守(りょうとうのたいしゅ)」に任ぜられた公孫度(こうそんたく)が襄平(じょうへい)に着任したあと、自ら「遼東侯(りょうとうこう)・平州牧(へいしゅうのぼく)」と号する。
『参考年表』

⇒?月
公孫度が「遼東太守」として襄平に着任したものの、自ら「遼東侯・平州牧」と称する。
『正史三國志群雄銘銘傳(増補版)』(『三国志』年表)

【11月】
塡星(ちんせい。鎮星とも。土星)・熒惑星(けいわくせい。火星)・太白星(たいはくせい。金星)が尾宿(びしゅく。二十八宿のひとつ)に合する。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】
この年、担当官吏が献帝に上奏し、「和帝(かてい)・安帝(あんてい)・順帝(じゅんてい)・桓帝(かんてい)の四帝には功徳がありませんでしたので『宗(そう)』という廟号をお使いになるべきではございません。また、恭懐皇后(きょうかいこうごう。和帝の母)・敬隠皇后(けいいんこうごう。安帝の祖母)・恭愍皇后(きょうびんこうごう。順帝の母)の三皇后はみな正妻ではありませんので『后』とお呼びになるべきではございません。どうかこれらの尊号を除かれますように」と述べた。献帝はこれを許可した。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると、和帝は『穆宗(ぼくそう)』、安帝は『恭宗(きょうそう)』、順帝は『敬宗(けいそう)』、桓帝は『威宗(いそう)』と、それぞれ廟号で呼ばれていた。和帝は母の梁貴人(りょうきじん)を尊んで『恭懐皇后』といい、安帝は祖母の宋貴人(そうきじん)を尊んで『敬隠皇后』といい、順帝は母の李氏(りし)を尊んで『恭愍皇后』といった」という。

訳者補注(渡邉義浩氏)によると、「『宗』とは祖先中の有徳者、あるいはその廟号」だという。

【?月】
この年、孫堅(そんけん)が、荊州刺史(けいしゅうしし)の王叡(おうえい)と南陽太守(なんようたいしゅ)の張咨(ちょうし)を殺害した。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると、「『王氏譜(おうしふ)』に、『王叡はあざなを通曜(つうよう)といい、晋(しん)の太保(たいほ)となった王祥(おうしょう)の伯父である』とある。また『呉録(ごろく)』に、『王叡はもともと孫堅を(見下しており)遇する際に無礼だった。このとき孫堅が王叡を殺そうとすると、王叡は私に何の罪があるのかと言った。孫堅は、その罪を知らぬ罪だと答えた。王叡は困り果て、金を削ってこれを飲み、死んだ』とある」という。

訳者補注(渡邉義浩氏)によると、「王叡はあざなを通曜といい、琅邪(ろうや)の王氏の祖先にあたる。荊州刺史であったが、かねてより武官の孫堅を辱める言動が多かったため殺害された」という。

同じく訳者補注(渡邉義浩氏)によると、「張咨は潁川(えいせん)の人。董卓に抜てきされて南陽太守となっていたが、孫堅に殺害された」という。

【?月】
この年、献帝が、母の王氏の兄である王斌(おうひん)を召し寄せ、王斌は妻子を連れて長安に至った。献帝は王斌に屋敷と田地を賜与したうえ「奉車都尉(ほうしゃとい)」に任じた。
『後漢書』(何皇后紀)

【?月】
この年、伏完(ふくかん)の娘の伏氏(ふくし)が掖庭(えきてい)に入り、献帝の「貴人(きじん)」となった。
『後漢書』(伏皇后紀〈ふくこうごうき〉)

【?月】
この年、趙穎(ちょうえい)が巴郡(はぐん)を分割し、もとの名に戻そうとした。そこで巴郡は墊江県(てんこうけん)を治所とすることにし、(巴郡の)安漢県(あんかんけん)から下流の地を「永寧郡(えいねいぐん)」と定めた。
『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)に引く譙周(しょうしゅう)の『巴記(はき)』

【?月】
この年、荊州刺史に任ぜられた劉表が襄陽(じょうよう)に役所を置き、蒯良(かいりょう)らの支持を得て勢力を蓄えた。
『参考年表』

⇒?月
この年、献帝が劉表を「荊州刺史」に任じた。
『三国志全人名事典』(関連略年表)

後の192年10月の『参考年表』に、「献帝が劉表を『荊州牧(けいしゅうのぼく)』に任ずる」という記事があった。上のふたつの記事との兼ね合いがわからなかった。

【?月】
この年、曹操が滎陽(けいよう)で董卓軍と戦ったものの敗れた。
『三国志全人名事典』(関連略年表)

【?月】
この年、応璩(おうきょ)が生まれた。
『参考年表』

「この年(190年)に亡くなったとされる人物」
少帝(しょうてい。弘農王〈こうのうおう〉の劉辯〈りゅうべん〉)・王叡(おうえい)・張咨(ちょうし)。
『正史三國志群雄銘銘傳(増補版)』(『三国志』年表)

「この年(190年)に生まれたとされる人物」
馬謖(ばしょく)・何晏(かあん)。
『正史三國志群雄銘銘傳(増補版)』(『三国志』年表)

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