227年(魏の太和元年・蜀の建興5年・呉の黄武6年)の主な出来事

-227年- 丁未(ていび)
【魏】 太和(たいわ)元年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉)
【蜀】 建興(けんこう)5年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 黄武(こうぶ)6年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
魏(ぎ)の曹叡が、洛陽(らくよう)の郊外で武帝(ぶてい。曹操〈そうそう〉)と天帝を併せて祭り、明堂(めいどう。政堂)で文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉)と上帝を併せて祭る。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉)

【01月】
魏の曹叡が、江夏郡(こうかぐん)の南部を分割し、江夏南部都尉(こうかなんぶとい)の官を設置する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【01月】
西平(せいへい)の麴英(きくえい)が魏に背き、臨羌県令(りんきょうけんれい)と西都県長(せいとけんちょう)を殺害する。曹叡は、郝昭(かくしょう)と鹿磐(ろくはん)を討伐に遣わし、麴英を斬殺させた。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【01月】
呉の部将たちが、先に蜂起した鄱陽(はよう)の賊の彭綺(ほうき)を捕らえる。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【02月】
辛未(しんび)の日(5日)
魏の曹叡が籍田(せきでん)を耕す。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【02月】
辛巳(しんし)の日(15日)
魏の曹叡が、生母である文昭皇后(ぶんしょうこうごう。甄氏〈しんし〉)の霊廟(れいびょう)を鄴(ぎょう)に建立する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【02月】
丁亥(ていがい)の日(21日)
魏の曹叡が、洛陽の東郊で太陽を祭る。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【03月】
魏の曹叡が、中山郡(ちゅうざんぐん)の魏昌県(ぎしょうけん)安城郷(あんじょうきょう)の1千戸を、亡き甄逸(しんいつ。文昭皇后の父)に追贈したうえ、敬侯(けいこう)と諡(おくりな)する。甄逸の嫡孫の甄像(しんぞう)が爵位を継承した。
『三国志』(魏書・文昭甄皇后伝〈ぶんしょうしんこうごうでん〉)

【春】
蜀(しょく)の丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)が出撃し、漢中(かんちゅう)に駐屯する。そして沔水(べんすい)の北にあたる、陽平郡(ようへいぐん)の石馬県(せきばけん)に陣を布(し)いた。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

⇒03月
蜀の諸葛亮が、漢中に軍を進める。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

⇒?月
蜀の諸葛亮が、劉禅に「出師表(すいしのひょう)」を奉呈したうえ、漢中に駐屯する。
『三国志全人名事典』(『中国の思想』刊行委員会編著 徳間書店)の関連略年表

⇒春
蜀の諸葛亮が漢中に進出。陽平関近くの石馬(白馬〈はくば〉?)に駐屯して、北征の準備を整える。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)の『三国志』年表

【04月】
乙亥(いつがい)の日(10日)
魏の曹叡が、五銖銭(ごしゅせん)の発行を許可する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

五銖銭は漢代(かんだい)に通行し、董卓(とうたく)によって廃止された重さ5銖の銅貨。魏の曹丕の時代(221年)にも一時復活したが、ほどなく廃止されている。

⇒04月
魏の曹叡が、経済的な混乱から、再び五銖銭の使用を許可する。
『正史 三国志8』の年表

【04月】
甲申(こうしん)の日(19日)
魏の曹叡が、祖先の霊廟を造営する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【08月】
魏の曹叡が、洛陽の西郊で月を祭る。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【10月】
丙寅(へいいん)の日(4日)
魏の曹叡が、洛陽の東郊で閲兵式を行う。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【10月】
焉耆王(えんきおう)の息子が魏に入朝し、曹叡に近侍する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【11月】
魏の曹叡が、毛氏(もうし)を皇后に立てる。この際、広く天下の男子各人に2等級の爵位を賜い、鰥夫(やもめ。妻と死別した男性)、寡婦(やもめ。夫と死別した女性)、子のない老人、孤児で自立していけない者に扶持米(ふちまい)を下賜した。
『三国志』(魏書・明帝紀)

例によって、「広く天下の男子各人に2等級の爵位を賜い」のくだりについては、よくわからなかった。

『後漢書(ごかんじょ)』や『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注を読み、「民に爵号を下賜した」という意味がわかった。

漢では、国家に慶事もしくは凶事が起こったとき、民の男子(長男限定など、場合によって対象者は異なる)に爵位を賜与する制度があったという。当然、魏にも同じような制度があったということだった。このあたりのことについては、215年1月の記事を参照。

【12月】
魏の曹叡が、毛皇后(もうこうごう)の父の毛嘉(もうか)を列侯(れっこう)に封ずる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【12月】「孟達(もうたつ)の反乱」
魏の新城太守(しんじょうたいしゅ)の孟達が反乱を起こしたため、曹叡は、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の司馬懿(しばい)に詔(みことのり)を下し、討伐にあたらせる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

『三輔決録注(さんぽけつろくちゅう)』…孟達の父の孟他(もうた)について。

『魏略(ぎりゃく)』…劉備(りゅうび)の配下だった孟達が、魏の曹丕に降ってから、ここで反乱を起こすまでの経緯。

【閏12月】
呉の韓当(かんとう)の息子の韓綜(かんそう)が、配下を引き連れて魏に降る。
『三国志』(呉書・呉主伝)

特記事項

「この年(227年)に亡くなったとされる人物」
賀斉(がせい)徐晃(じょこう)

「この年(227年)に生まれたとされる人物」
賀邵(がしょう)諸葛瞻(しょかつせん)

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