208年(漢の建安13年)の主な出来事

-208年- 戊子(ぼし)
【漢】 建安(けんあん)13年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
曹操(そうそう)が鄴(ぎょう)に帰還し、玄武池(げんぶち)を造って水軍の肄(い。訓練)を行う。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

ここで裴松之(はいしょうし)が「肄は『イ』の音である」としたうえ、「『三蒼(さんそう)』にいう。肄は習(訓練)の意味である」と注釈している。

【01月】
献帝が、司徒(しと)の趙温(ちょうおん)を罷免する。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)

⇒?月
この年、曹操の息子の曹丕(そうひ)が、司徒の趙温から招聘(しょうへい)される。

曹操がこの件を献帝に上奏し、「趙温は私におもねり、故意に実質を無視した選抜を行っております」と述べた。

献帝は、侍中(じちゅう)・守光禄勲(しゅこうろくくん。光禄勲代行)の郗慮(ちりょ)に節(せつ。使者のしるし)を持たせ、趙温に免職の辞令を伝えさせた。
『三国志』(魏書・文帝紀〈ぶんていぎ〉)の裴松之注に引く『献帝起居注(けんていききょちゅう)』

【春】
孫権(そんけん)が再び軍を動かし、劉表(りゅうひょう)配下の黄祖を攻める。

黄祖は、水軍を使って孫権軍を阻もうとしたが、孫権配下の都尉(とい)の呂蒙(りょもう)がその先鋒を討ち破り、淩統(りょうとう)や董襲(とうしゅう)らが精鋭を投入して攻め立てたため、ついに黄祖の城は攻め落とされた。

黄祖は身ひとつで逃走したが、孫権配下の騎兵の馮則(ふうそく)が、これを追って首級(くび)を挙げ、さらし物にした。黄祖配下の男女数万人は捕虜になった。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【?月】
献帝が三公を廃止し、丞相(じょうしょう)と御史大夫(ぎょしたいふ)の官を設置する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒06月
献帝が三公を廃止し、丞相と御史大夫の官を設置する。
『後漢書』(献帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「丞相は秦官(しんかん)。前漢(ぜんかん)も秦を継承して、丞相を行政の長としていたが、後漢(ごかん)は三公を設置して丞相を廃止していた。董卓(とうたく)は、相国(しょうこく)に就任して全権を掌握したが、三公は廃止しなかった。これに対して曹操は、丞相の官を復活させるとともに、三公を廃止して全権を掌握したのである」という。

同じく『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「御史大夫は秦官。百官の監察や弾劾を担当する。後漢の初めに丞相を廃止した際、御史大夫も廃止されていた」という。

【06月】
曹操が丞相に任ぜられる。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒06月
癸巳(きし)の日(9日)
曹操が、自ら丞相に就任する。
『後漢書』(献帝紀)

【07月】
曹操が、劉表討伐のため南方へ向かう。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒07月
曹操が南征し、劉表を攻める。
『後漢書』(献帝紀)

【08月】「劉表の死」
劉表が死去し、息子の劉琮(りゅうそう)が代わって襄陽(じょうよう)に駐屯する。このとき劉表のもとにいた劉備(りゅうび)は、樊(はん)に駐屯していた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒08月
劉表が死去し、息子の劉琮が跡を継ぐ。劉琮は、荊州(けいしゅう)を挙げて曹操に降伏した。
『後漢書』(献帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「劉琮は劉表の息子。劉表の死後、長子を差し置いて跡を継いだ。曹操の南征を受けて降伏。青州刺史(せいしゅうしし)・諫議大夫(かんぎたいふ)・参同軍事(さんどうぐんじ)に任ぜられた」という。

【08月】
丁未(ていび)の日(24日)
献帝が、光禄勲の郗慮を御史大夫に任ずる。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると「『続漢書(しょくかんじょ)』に『郗慮はあざなを鴻豫(こうよ)といい、山陽郡(さんようぐん)高平県(こうへいけん)の人である。若くして鄭玄(ていげん。じょうげん)から経学(けいがく)を学んだ』とある」という。

【08月】
壬子(じんし)の日(29日)
曹操が、太中大夫(たいちゅうたいふ)の孔融(こうゆう)を殺害し、一族も皆殺しにする。
『後漢書』(献帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「孔融は魯国(ろこく)の人、あざなを文挙(ぶんきょ)。孔子(こうし)の20世孫。博覧強記で高い文才を備えていたが、やや尊大の風があり、たびたび曹操を侮蔑(ぶべつ)していた。(このとき)ついに大逆の汚名を着せられて処刑された」という。

【09月】「劉琮の降伏」
曹操が新野(しんや)に到着する。ここで劉琮が曹操に降伏し、これを知った劉備は夏口(かこう)に逃走した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

『後漢書』(献帝紀)では、すでに8月の劉表死去の記事で、この劉琮の降伏にも触れていた。

⇒08月
劉備が荊州から逃亡し、当陽(とうよう)の長坂(ちょうはん)で曹操に敗北を喫しながらも、夏口にたどり着く。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

⇒?月
劉備が、当陽の長坂で曹操に惨敗し、夏口に逃走する。
『三国志全人名事典』(『中国の思想』刊行委員会編著 徳間書店)の関連略年表

【?月】
曹操が江陵(こうりょう)に軍を進め、荊州の官民に布告を出す。過去を洗い流し、新たに出発することを宣言したもの。

曹操は、荊州の降伏に功績があった15人を列侯(れっこう)に封じ、劉表の配下だった文聘(ぶんぺい)を江夏太守(こうかたいしゅ)に取り立て、旧来の兵を指揮させた。また、荊州の名士である韓嵩(かんすう)や鄧義(とうぎ)らも取り立てて任用した。

さらに益州牧(えきしゅうぼく)の劉璋(りゅうしょう)が、初めて役夫の徴集要請を受け入れ、兵を遣わして曹操に助力した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
劉備が、夏口で孫権配下の魯粛(ろしゅく)と会い、孫権と結ぶことを決める。
『正史 三国志8』の年表

【?月】
劉備の使者として、諸葛亮(しょかつりょう)が柴桑(さいそう)に赴き、孫権と会見する。
『正史 三国志8』の年表

【?月】
曹操が孫権に書翰(しょかん)を送り、降伏を勧める。孫権配下の張昭(ちょうしょう)らは曹操への帰順を主張したが、孫権は、魯粛や周瑜(しゅうゆ)らの意見を用い、抗戦を決意した。
『正史 三国志8』の年表

【10月】
癸未(きび)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。
『後漢書』(献帝紀)

【12月】
孫権が劉備に助力し、合肥(ごうひ)の曹操軍を攻める。曹操は、江陵から劉備討伐のために出撃し、巴丘(はきゅう)まで進む。その一方、張憙(ちょうき)を遣わして合肥を救援させた。合肥を攻めていた孫権は、張憙が来ると聞いて逃走した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒12月
孫権が自ら合肥を包囲し、張昭に九江(きゅうこう)の当塗(とうと)を攻撃させたものの、戦果はなかった。
『正史 三国志8』の年表

【12月】「赤壁(せきへき)の戦い」
曹操が赤壁に到着し、劉備らと戦うが敗れる。このとき疫病が大流行し、多くの官吏や士卒が死んだ。そのため曹操は、軍を引き揚げて帰還した。こうして劉備は、荊州の江南(こうなん)諸郡を支配することになった。
『三国志』(魏書・武帝紀)

『山陽公載記(さんようこうさいき)』…曹操の退却時の様子について。

ここで裴松之が「孫盛(そんせい)の『異同評(いどうひょう)』による」として、「(『三国志』の)『呉志(ごし。呉書)』には『劉備が曹操軍を討ち破った後、孫権が合肥を攻めた』とある。しかしここでは『孫権が合肥を攻めた後、赤壁の戦いがあった』と記している。これは『呉志』にある順番が正しい」と指摘している。

⇒10月
曹操が、船団をひきいて孫権の討伐に向かったものの、烏林(うりん)・赤壁で、孫権配下の部将の周瑜に敗れる。
『後漢書』(献帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「赤壁は湖北省(こほくしょう)赤壁の西北。長江(ちょうこう)を挟んで北が烏林、南が赤壁である。曹操の中国統一はこの敗戦により実現しなかった」という。

『後漢書』(献帝紀)では、曹操が船団をひきいて孫権の討伐に向かった時期は記しているが、烏林・赤壁で両軍が激突した時期には、具体的に触れていないようだ。

【?月】
孫権配下の周瑜・程普(ていふ)らが、江陵を守っていた曹操配下の曹仁(そうじん)を攻める。
『正史 三国志8』の年表

⇒?月
孫権配下の周瑜らが、江陵で曹操配下の曹仁を包囲する。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【?月】
この年、孫権が賀斉(がせい)を遣わし、黟県(いけん)と歙県(しょうけん)を攻めさせる。そして歙県を分割し、始新県(ししんけん)・新定県(しんていけん)・犁陽県(りようけん)・休陽県(きゅうようけん)の4県を設置したうえ、これらの6県を併せて新都郡(しんとぐん)を新設した。
『三国志』(呉書・呉主伝)

⇒?月
この年、孫権が(丹陽郡〈たんようぐん〉から分割して)新都郡を設置した。
『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)

【?月】
この年、献帝が(漢中郡〈かんちゅうぐん〉の房陵県〈ぼうりょうけん〉を)新城郡(しんじょうぐん)に付けた。
『後漢書』(郡国志)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)に引く『巴漢志(はかんし)』

特記事項

「この年(208年)に亡くなったとされる人物」
甘氏(かんし)?孔融(こうゆう)曹沖(そうちゅう)劉表(りゅうひょう)劉馥(りゅうふく)

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