225年(魏の黄初6年・蜀の建興3年・呉の黄武4年)の主な出来事

-225年- 乙巳(いっし)
【魏】 黄初(こうしょ)6年 ※文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉)
【蜀】 建興(けんこう)3年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 黄武(こうぶ)4年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

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月別および季節別の主な出来事

【02月】
魏(ぎ)の曹丕が使者を遣わし、許昌(きょしょう)以東、沛郡(はいぐん)の全域を巡行させ、「民の困苦を慰問し、貧民に救済策を施すように」と命ずる。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文帝紀〈ぶんていぎ〉)

【02月】
魏の曹丕が詔(みことのり)を下す。「尚書令(しょうしょれい)・潁郷侯(えいきょうこう)の陳羣(ちんぐん)を鎮軍大将軍(ちんぐんだいしょうぐん)に、尚書僕射(しょうしょぼくや)・西郷侯(せいきょうこう)の司馬懿(しばい)を撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)に、それぞれ任ずる」というもの。

そして「もし朕が長江(ちょうこう)に向かい、諸将に策略を授ける場合には、撫軍将軍(司馬懿)は許昌に留守し、後部にいる諸軍を統率せよ。留守の尚書台において、文書の事をつかさどるように。鎮軍将軍(陳羣)は御車(みくるま)に随行し、衆軍を統率して行尚書事(こうしょうしょじ)を受け持つように」と命じ、ふたりを仮節(かせつ)としたうえ、鼓吹(こすい。軍楽隊)を与え、中軍の歩騎600人を護衛として支給した。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『魏略(ぎりゃく)』

【03月】
魏の曹丕が召陵(しょうりょう)に行幸し、討虜渠(とうりょきょ。運河の名)の開通を視察する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【03月】
乙巳の日(28日)
魏の曹丕が許昌宮に還幸する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【03月】
蜀(しょく)の丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)が、南方の4郡(益州〈えきしゅう〉・永昌〈えいしょう〉・牂牁〈そうか〉・越嶲〈えっすい〉)を征討し、この4郡が平定される。

蜀の劉禅は、益州郡を建寧郡(けんねいぐん)と改め、建寧と永昌の両郡から一部を分割し、雲南郡(うんなんぐん)を設置した。また、建寧と牂牁の両郡から一部を分割して、興古郡(こうこぐん)を設置した。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

⇒?月
蜀の諸葛亮が南中(なんちゅう)に軍を進め、孟獲(もうかく)を降して滇池(てんち)まで至る。これにより、益州(益州郡)・永昌・牂柯・越嶲が蜀の勢力下に入った。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【03月】
魏の幷州刺史(へいしゅうしし)の梁習(りょうしゅう)が、鮮卑(せんぴ)の軻比能(かひのう)を討伐し、これを散々に討ち破る。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【閏03月】
辛未(しんび)の日(24日)
魏の曹丕が水軍を整え、東方征討に赴く。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【05月】
戊申(ぼしん)の日(2日)
魏の曹丕が譙(しょう)に到着する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【05月】
壬戌(じんじゅつ)の日(16日)
熒惑星(けいわくせい。火星)が太微(たいび。星垣〈せいえん〉。しし座の西端にある10星)に入る。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【05月】「孫邵(そんしょう)の死」
呉(ご)の丞相の孫邵が死去する。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【06月】
魏の利成郡(りせいぐん)の兵士である蔡方(さいほう)らが、郡を挙げて背き、利成太守(りせいたいしゅ)の徐質(じょしつ)を殺害する。

曹丕は、屯騎校尉(とんきこうい)の任福(じんふく)と歩兵校尉(ほへいこうい)の段昭(だんしょう)を遣わし、青州刺史(せいしゅうしし。王淩〈おうりょう〉)と協力して討伐にあたらせた。

この反乱に加わった者のうち、脅迫されたり無理やり引き込まれた者、および反乱の発生によって亡命した者については、全員の罪を許した。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【06月】
呉の孫権が、太常(たいじょう)の顧雍(こよう)を丞相に任ずる。
『三国志』(呉書・呉主伝)

また「『呉書』にいう」として、「尚書令の陳化(ちんか)を太常に任じた」ともある。

【07月】
魏の曹丕が、息子の曹鑒(そうかん)を東武陽王(とうぶようおう)に封ずる。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【08月】
魏の曹丕が、水軍をひきいて譙を発ち、渦水(かすい)を通って淮水(わいすい)に入り、陸路を進んで徐(じょ)に到着する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【09月】
魏の曹丕が東巡台(とうじゅんだい)を築く。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【10月】
魏の曹丕が広陵(こうりょう)の古城に赴き、長江を前にして閲兵を行う。このとき魏の兵は10余万にも上り、数百里にわたって軍旗がはためいた。
『三国志』(魏書・文帝紀)

『魏書』…曹丕が馬上で作った詩。

【10月】
魏の曹丕が軍を引き揚げる。この年は寒さが厳しく、水路が凍結したため長江に船を進めることができなかった。
『三国志』(魏書・文帝紀)

⇒冬
魏の曹丕自ら広陵まで軍を進めるが、厳しい寒さのため長江に船を入れられず、そのまま軍を引き揚げる。その帰路で呉の高寿(こうじゅ)らの夜襲を受け、副車(そえぐるま)と羽蓋(羽根で飾った馬車のかさ)を奪われた。
『三国志』(呉書・呉主伝)の裴松之注に引く『呉録(ごろく)』

⇒10月
魏の曹丕が、再び呉討伐の軍を動かす。魏軍は広陵まで至るが、戦果のないまま軍を退いた。
『正史 三国志8』の年表

【11月】
魏の曹丕の息子で、東武陽王の曹鑒が薨去(こうきょ)する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【12月】
蜀の丞相の諸葛亮が、南征を終えて成都(せいと)に帰還する。
『三国志』(蜀書・後主伝)

⇒?月
蜀の諸葛亮が、七縦七擒(しちしょうしちきん)の策をもって南方の異民族を平定する。
『三国志全人名事典』(『中国の思想』刊行委員会編著 徳間書店)の関連略年表

【12月】
魏の曹丕が譙を発ち、梁(りょう)に行幸する。ここで使者を遣わして太牢(たいろう。牛・羊・豕〈し。ブタ〉)の犠牲(いけにえ)を捧げさせ、もとの漢(かん)の太尉(たいい)である橋玄(きょうげん)を祭らせた。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【12月】
呉の鄱陽(はよう)の賊である彭綺(ほうき)が、勝手に将軍を名乗り、周辺の諸県を攻め落とす。この一味に加わる者は数万に上った。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【?月】
この年、呉の孫権のもとに、「皖口(かんこう)で連理の木(根がふたつあり、上で枝がひとつに交わっている木)が見つかった」との報告が届いた。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【?月】
この年、呉でたびたび地震が起こった。
『三国志』(呉書・呉主伝)

特記事項

「この年(225年)に亡くなったとされる人物」
王士(おうし)夏侯尚(かこうしょう)龔禄(きょうろく)曹鑒(そうかん)孫邵(そんしょう)雍闓(ようかい)李邵(りしょう)A ※あざなは永南(えいなん)

「この年(225年)に生まれたとされる人物」
鍾会(しょうかい)

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