-241年- 辛酉(しんゆう)
【魏】 正始(せいし)2年 ※少帝(曹芳〈そうほう〉)
【蜀】 延熙(えんき)4年 ※後主(劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 赤烏(せきう)4年 ※大帝(孫権〈そんけん〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】
呉で大雪が降り、平地に3尺(せき)も積もる。このため多くの鳥獣が死んだ。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【02月】
魏の曹芳が初めて『論語』を学び、太常に命じて太牢(牛・羊・豕〈し。ブタ〉)の犠牲(いけにえ)を捧げさせ、辟雍(天子が建てた太学)で孔子を祭らせ、顔淵(がんえん)も併せて祭る。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【05月】
呉の朱然(しゅぜん)らが、魏の襄陽郡の樊城県を包囲する。魏の曹芳は、太傅の司馬懿(しばい)に防戦を命じた。
『三国志』(魏書・斉王紀)
★干宝(かんぽう)の『晋紀』…このときの魏と呉の戦いの様子について。
⇒04月
呉の孫権が、衛将軍の全琮(ぜんそう)を遣わして魏の淮南を攻め、芍陂(しゃくひ)を決壊させ、寿春近くの安城の邸閣(食糧貯蔵庫)を焼き、その地の民を捕虜にする。
また呉の威北将軍の諸葛恪(しょかつかく)は、魏の六安(りくあん)を攻めた。全琮は、芍陂で魏の王淩(おうりょう)と戦ったものの、この戦いで呉の中郎将の秦晃(しんこう)ら10余人が戦死した。
呉の車騎将軍の朱然は魏の樊を包囲し、大将軍の諸葛瑾(しょかつきん)は柤中(そちゅう)を占領した。
『三国志』(呉書・呉主伝)
★『漢晋春秋』…零陵太守の殷礼(いんれい)の孫権への上言について。
【05月】「孫登(そんとう)の死」
呉の皇太子の孫登が薨去(こうきょ)する。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【05月】
魏の太傅の司馬懿が、樊の救援に到着する。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【06月】
辛丑(しんちゅう)の日(29日)
魏の太傅の司馬懿が、樊城県から軍を引き揚げる。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【06月】
呉の孫権が、諸方に遣わしていた軍に帰還を命ずる。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【閏06月】「諸葛瑾の死」
呉の大将軍の諸葛瑾が死去する。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【08月】
呉の陸遜(りくそん)が、江夏の邾(ちゅ)に城を築く。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【?月】
己卯(きぼう)の日(?日)
魏の曹芳が、征東将軍の王淩を車騎将軍に任ずる。
『三国志』(魏書・斉王紀)
【10月】
蜀の尚書令の費禕(ひい)が漢中に行き、蔣琬(しょうえん)と計策を相談したものの、年末になったため帰還する。
『三国志』(蜀書・後主伝)
⇒?月
蜀の蔣琬が、漢水沿いに水軍を進め、魏の魏興と上庸の攻略を計る。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
【12月】
魏の南安郡で地震が起こる。
『三国志』(魏書・斉王紀)
特記事項
「この年(241年)に亡くなったとされる人物」
管寧(かんねい)・諸葛瑾(しょかつきん)・孫韶(そんしょう)・孫登(そんとう)B ※孫権(そんけん)の息子
「この年(241年)に生まれたとされる人物」
曹髦(そうぼう)
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