181年(漢の光和4年)の主な出来事

-181年- 辛酉(しんゆう)
【漢】 光和(こうわ)4年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
霊帝が初めて騄驥厩丞(りょくききゅうのじょう)の官を設置し、郡国から徴発した馬を受け取らせる。このため豪族が利益を独占するようになり、1頭の価格が200万銭にもなった。
『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉)

李賢注(りけんちゅう)によると「騄驥とは名馬のことである」という。

【02月】
霊帝のもとに、郡国から芝英草(シエイソウ)が献上される。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
庚子(こうし)の日(?日)
霊帝が大赦を行う。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
交趾刺史(こうししし)の朱儁(しゅしゅん)が交趾・合浦(ごうほ)の両郡の烏滸蛮(うこばん)の討伐にあたり、これを討ち破る。
『後漢書』(霊帝紀)

以前からの疑問のひとつが交趾刺史。ほかでは幽州刺史(ゆうしゅうのしし)や益州刺史(えきしゅうのしし)など某州刺史となっているのに、ここだけ交州刺史ではなく交趾刺史という表現になるのはなぜ? 確かに『後漢書』の原文でも交趾刺史と書かれており間違っていないようだが、相変わらず理由がわからない。

【06月】
庚辰(こうしん)の日(19日)
雹(ひょう)が降る。
『後漢書』(霊帝紀)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【07月】
霊帝のもとに、河南尹(かなんいん)から「新城県(しんじょうけん)で鳳凰(ほうおう)が現れ鳥の群れがこれに従った」との報告が届く。霊帝は新城県令(しんじょうけんのれい)および三老(さんろう)と力田(りきでん)に対し、それぞれ差をつけ帛(きぬ)を下賜した。
『後漢書』(霊帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると「三老は郷官(きょうかん)。郷里社会における徴税や治安維持を担当した。力田も郷官のひとつ。よく農業に励む者が任命され、社会の模範として顕彰された。後漢(ごかん)では詔(みことのり)による恩賜や租税免除などの恩恵があった」という。

鳳凰について、原文などでは鳳皇となっていたが、ほかとの兼ね合いから鳳凰と表記しておく。両者通用するようだ。

【09月】
庚寅(こういん)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。
『後漢書』(霊帝紀)

【09月】
霊帝が太尉(たいい)の劉寛(りゅうかん)を罷免し、衛尉(えいい)の許戫(きょいく)を太尉に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【閏09月】
辛酉(しんゆう)の日(2日)
北宮の東掖庭(とうえきてい)にある永巷署(えいこうしょ)で火災が起こる。
『後漢書』(霊帝紀)

【閏09月】
霊帝が司徒(しと)の楊賜(ようし)を罷免する。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
霊帝が太常(たいじょう)の陳耽(ちんたん)を司徒に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
鮮卑(せんぴ)が幽州(ゆうしゅう)・幷州(へいしゅう)の両州に侵攻する。
『後漢書』(霊帝紀)

⇒10月
鮮卑が幽州・幷州の両州に侵攻する。檀石槐(たんせきかい)が亡くなり、息子の和連(かれん)が立つ。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

⇒10月
鮮卑が幽州・幷州の両州に侵攻する。なおこの年、鮮卑の大人(たいじん)の檀石槐が死去した。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【?月】
この年、霊帝が後宮に屋台を作り、大勢の采女(さいじょ)を売り子役として互いに品物の奪い合いをさせた。霊帝は商人の服を着けて飲宴し、これを楽しみとした。

また、西園(せいえん)では犬を使って遊び、それらの犬に進賢冠(しんけんかん)を着け、綬(じゅ)を帯びさせたりもした。さらに、四驢(しろ)の馬車に乗り、霊帝自ら轡(くつわ)を操って駆け回らせた。こうした様子は洛陽(らくよう)の街にも伝わり、まねをする者も出た。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「『三礼図(さんらいず)』に、『進賢冠は文官が着ける。前の高さは7寸、後ろの高さは3寸、長さは8寸である』という。『続漢書(しょくかんじょ)』(五行志〈ごぎょうし〉)に、『霊帝はお気に入りの子弟を寵用して次第に引き上げ、関内侯(かんだいこう)を500万銭で売った。強き者を貪欲なこと豺狼(さいろう)のようにし、弱き者をほとんど人間のように扱わず、まことに狗(イヌ)が冠を着けるかのようであった』とある」という。

また「『漢書(かんじょ)』(五行志)に、昌邑王(しょうゆうおう。劉賀〈りゅうが〉)は犬が方山冠(ほうざんかん)を着けているのを見た。(その理由を問われた)龔遂(きょうすい)は、『王の左右はみな犬でありながら冠を着けているような状況にある(ので気をつけなければなりません)』と言ったとある」ともいう。

『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「進賢冠は冠の名。周代(しゅうだい)は緇布冠(しふかん)と称し、後漢に至って進賢冠と改名し、文官が着用した。前の高さは約16センチメートル、後ろの高さは約7センチメートル、長さは約14センチメートル。公侯は3本、中二千石(せき)から博士(はくし)まで、および宗室の劉氏は2本、博士以下が1本と、地位によって冠の芯(梁)の数が決まっていた」という。

これらの注からだいぶイメージはできたものの、博士までと博士以下という表現が引っかかる。では、博士は何本なのか?

同じく李賢注によると「『続漢書』(五行志)に、そもそも驢は重い物を乗せて遠くに運び、山谷を上り下りする。野人が使うものである。どうして帝王君子たる者が、これを走らせることなどあってよいものだろうか。天意にこう言っている。『国が大いに乱れようとするとき、賢愚が逆さまになり、政治を執り行う者が驢のようになるのである』とある」という。

【?月】
この年、霊帝が何皇后(かこうごう)の父である何真(かしん)を追尊して車騎将軍(しゃきしょうぐん)・舞陽宣徳侯(ぶようせんとくこう)としたうえ、何皇后の母である興(きょう)を舞陽君(ぶようくん)とした。
『後漢書』(何皇后紀〈かこうごうき〉)

【?月】「劉協(りゅうきょう)の誕生と王美人(おうびじん)の死」
この年、霊帝の王美人が皇子の劉協(のちの献帝〈けんてい〉)を産んだ。このため何皇后は王美人を酖殺(ちんさつ。酖毒による殺害)した。これを知った霊帝は激怒し、何皇后を廃そうとしたが、多くの宦官(かんがん)が取りなしたので思いとどまった。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
この年、大長秋(だいちょうしゅう)の曹節(そうせつ)が死去した。
『正史 三国志8』の年表

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180年代 正史年表
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