256年(〈魏の正元3年〉→甘露元年・蜀の延熙19年・〈呉の五鳳3年〉→太平元年)の主な出来事

-256年- 丙子(へいし)
【魏】 (正元〈せいげん〉3年) → 甘露(かんろ)元年 ※高貴郷公(曹髦〈そうぼう〉)
【蜀】 延熙(えんき)19年 ※後主(劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 (五鳳〈ごほう〉3年) → 太平(たいへい)元年 ※会稽王(孫亮〈そんりょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
辛丑(しんちゅう)の日(24日)
魏の軹県(しけん)の井戸の中に青龍が現れる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【01月】
乙巳(いっし)の日(28日)
魏の沛王の曹林(そうりん)が薨去(こうきょ)する。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

『魏氏春秋』…2月丙辰(へいしん)の日(9日)に、曹髦が太極東堂(たいごくとうどう)で催した大宴の席での話。ここで曹髦は、臣下たちと礼法制度について議論した末、帝王の優劣についても言及した。翌丁巳(ていし)の日(10日)の講義後にも、夏(か)の少康(しょうこう)と漢の高祖の優劣について議論し、このときのやり取りを侍郎の鍾会(しょうかい)が編集した。

【春】
蜀の劉禅が、姜維(きょうい)を大将軍に任じ、兵馬の指揮を執らせる。姜維は鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)の胡済(こせい)と上邽(じょうけい)で落ち合う約束をしたが、胡済はやってこなかった。
『三国志』(蜀書・後主伝)

⇒01月
蜀の劉禅が、姜維を大将軍に任ずる。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【01月】
呉の孫亮が、孫権(そんけん)の廟を建て、それを太祖廟と呼ぶ。
『三国志』(呉書・孫亮伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『呉歴』

昨年(255年)12月の『三国志』(呉書・孫亮伝)および『正史 三国志8』の年表の記事との兼ね合いがわからなかった。昨年末に孫堅の廟を建て、この年初に孫権の廟も建てたという意味のようだが――。

【02月】
戊申(ぼしん)の日(1日)、朔(さく)
呉の建業で火災が起こる。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

ここは干支(かんし)を補っておく。

【04月】
庚戌(こうじゅつ)の日(4日)
魏の曹髦が大将軍の司馬昭(しばしょう)に、天子の着物と冠に赤い靴を添えて下賜する。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【04月】
丙辰(へいしん)の日(10日)
魏の曹髦が太学に行幸し、儒者たちに『易』という書名の由来を問う。この『易』についての講義を聴き終わると、さらに『尚書』と『礼記(らいき)』の講義も行うよう命じ、激論を戦わせた。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

「曹髦の文集」…自身の誕生の際に表れた瑞祥について。

『晋諸公賛』…曹髦が、たびたび東堂で臣下たちとくつろいだ形の討論会を催し、それと同時に文学論も書きつづったという話。

【05月】
魏の曹髦のもとに、「鄴と上洛で甘露が降った」との報告が届く。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【06月】「魏の改元」
丙午(へいご)の日(1日)
魏の曹髦が、「正元」を「甘露」と改元する。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【06月】
乙丑(いっちゅう)の日(20日)
魏の元城県の井戸の中に青龍が現れる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【07月】
己卯(きぼう)の日(5日)
魏の衛将軍の胡遵(こじゅん)が死去する。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【07月】
癸未(きび)の日(9日)
魏の安西将軍の鄧艾(とうがい)が、蜀の姜維を上邽で大破する。

曹髦は詔を下し、「最近の勝ち戦でこれほどのものはない」と称賛したうえ、「使者を遣わして将兵をねぎらい、褒美を与え、大宴会を催して供応するように」と命ずる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

⇒08月
蜀の姜維が、上邽で魏の大将軍の鄧艾に撃破され、軍勢を退いて成都に帰る。
『三国志』(蜀書・後主伝)

鄧艾の肩書について、『三国志』(魏書・高貴郷公紀)と(蜀書・後主伝)の記述が異なっている。このとき魏の大将軍は司馬昭のはずなので、鄧艾は安西将軍でいいか。

【08月】
庚午(こうご)の日(26日)
魏の曹髦が、大将軍の司馬昭に大都督の称号を加えたうえ、上奏する際に名を唱えないことを許し、黄金の鉞(まさかり。軍権の象徴)を貸し与える。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【08月】
癸酉(きゆう)の日(29日)
魏の曹髦が、太尉の司馬孚(しばふ)を太傅に任ずる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【08月】
呉の孫峻(そんしゅん)が、征北大将軍の文欽(ぶんきん)の計を用い、魏の征伐を計画する。

そこでまず8月に、文欽と驃騎将軍の呂拠(りょきょ)、車騎将軍の劉纂(りゅうさん)、鎮南将軍の朱異(しゅい)、前将軍の唐咨(とうし)らの軍を動かし、江都から淮水・泗水流域への進入を命じた。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【09月】
魏の曹髦が、司徒の高柔(こうじゅう)を太尉に任ずる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【09月】「孫峻・呂岱(りょたい)の死」
丁亥(ていがい)の日(14日)
呉の孫峻が死去する。孫峻の従弟で偏将軍の孫綝(そんりん)が侍中・武衛将軍・領中外諸軍事に任ぜられ、先に出撃していた呂拠たちには帰還命令が出される。呂拠は、孫綝が孫峻の跡を継いで朝廷の実権を握ったと聞き、ひどく腹を立てた。

己丑(きちゅう)の日(16日)
呉の大司馬の呂岱が死去する。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

⇒?月
この年、呂岱は96歳で亡くなり、息子の呂凱(りょかい)が爵位を継いだ。

呂岱は遺言で、「飾りのない柩(ひつぎ)を用い、死に装束として粗末な頭巾と麻布の単衣(ひとえ)を用い、葬送の儀礼もなるべく倹約に努めるように」と命じ、呂凱はすべて遺言通りに執り行った。
『三国志』(呉書・呂岱伝)

壬辰(じんしん)の日(19日)
太白星(金星)が南斗を犯す。呉の呂拠・文欽・唐咨らは孫亮に上表し、「衛将軍の滕胤(とういん)を丞相に任ぜられますように」と乞うたものの、孫綝がそれを許さなかった。

癸卯(きぼう)の日(30日)
呉の孫亮が、滕胤を大司馬に任じ、亡くなった呂岱に代わり武昌に駐屯するよう命ずる。一方、呂拠が軍をひきいて帰還し、孫綝を討とうと謀った。孫綝は孫亮の詔書を使い、文欽と唐咨らに呂拠を捕らえるよう命じた。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【10月】
魏の曹髦が、司空の鄭沖(ていちゅう)を司徒に、尚書左僕射(しょうしょさぼくや)の盧毓(ろいく)を司空に、それぞれ任ずる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)

【10月】「滕胤の死」
丁未(ていび)の日(4日)
呉の孫綝が、孫憲(そんけん。孫慮〈そんりょ〉)・丁奉(ていほう)・施寛(しかん)らを遣わし、水軍を使って江都で呂拠を迎え撃つ。また、別に将軍の劉丞(りゅうじょう)を遣わし、歩騎で滕胤を攻めさせた。滕胤は敗れ、その一族が皆殺しにされた。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【10月】「呉の改元」
己酉(きゆう)の日(6日)
呉の孫亮が大赦を行い、「五鳳」を「太平」と改元する。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【10月】
辛亥(しんがい)の日(8日)
呉の呂拠が新州(建業近くにあった長江の中洲〈なかす〉)で捕らえられる。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【11月】
呉の孫亮が、孫綝を大将軍に任じて仮節とし、永寧侯に封ずる。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【11月】
呉の孫憲(孫慮)が将軍の王惇(おうとん)と謀り、孫綝の暗殺を企てたものの発覚する。孫綝は王惇を殺害し、孫憲を自殺させた。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【12月】
呉の孫亮が、五官中郎将の刁玄(ちょうげん)を蜀へ遣わし、呉で反乱が起きたことを伝えさせる。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【?月】
この年、蜀の劉禅が、息子の劉瓚(りゅうさん)を新平王に封ずる。また、大赦が行われた。
『三国志』(蜀書・後主伝)

特記事項

「この年(256年)に亡くなったとされる人物」
王粛(おうしゅく)曹林(そうりん)孫氏(そんし)K? ※孫奐(そんかん)の娘孫氏L? ※孫奐の娘孫咨(そんし)孫峻(そんしゅん)孫封(そんほう)孫慮(そんりょ。孫憲〈そんけん〉)B ※孫綝(そんりん)の従兄滕胤(とういん)劉胤(りゅういん)呂拠(りょきょ)呂岱(りょたい)

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