178年(〈漢の熹平7年〉→光和元年)の主な出来事

-178年- 戊午(ぼご)
【漢】 (熹平〈きへい〉7年) → 光和(こうわ)元年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
合浦(ごうほ)・交趾(こうし)の両郡の烏滸蛮(うこばん)が反乱を起こす。彼らは九真(きゅうしん)・日南(にちなん)の両郡の民を扇動し、郡県を攻め落とした。
『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉)

【01月】
霊帝が、太尉(たいい)の孟戫(もういく)を罷免する。
『後漢書』(霊帝紀)

【02月】
辛亥(しんがい)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。
『後漢書』(霊帝紀)

【02月】
癸丑(きちゅう)の日(3日)
霊帝が、光禄勲(こうろくくん)の袁滂(えんぼう)を司徒(しと)に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【02月】
己未(きび)の日(9日)
地震が起こる。
『後漢書』(霊帝紀)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【02月】
霊帝が、初めて鴻都門(こうともん)の学に学生を置く。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると「鴻都は門の名である。門の内に学を設置した。このとき学の生徒は、みな三公や州郡に詔(みことのり)を下し、よく書簡文と辞賦(じふ)を作り、鳥篆(ちょうてん。古代の篆書文字)に巧みな者を推挙させて試験を行った。その数は1千人にも上った」という。

⇒02月
鴻都門学が設置されたものの、士大夫層には人気が出なかった。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【03月】「漢(かん)の改元」
霊帝が大赦を行い、「熹平」を「光和」と改元する。
『後漢書』(霊帝紀)

【03月】
霊帝が、太常(たいじょう)の張顥(ちょうこう)を太尉に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注…『捜神記(そうじんき)』にある、張顥が梁国相(りょうこくしょう)を務めていたころ、雨上がりにひとつの金印を得た話。

【04月】
丙辰(へいしん)の日(7日)
地震が起こる。
『後漢書』(霊帝紀)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【04月】
侍中(じちゅう)の役所で飼われていた雌鶏(メンドリ)が、雄(オス)に化けるという事件が起こる。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
霊帝が、司空(しくう)の陳耽(ちんたん)を罷免し、太常の来豔(らいえん)を司空に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【05月】
壬午(じんご)の日(3日)
白衣を着た者が、徳陽殿(とくようでん)の門から入り込むという事件が起こる。この者は逃げ去ってしまい、捕縛することができなかった。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「『東観漢記(とうかんかんき)』に、白衣の人は『梁伯夏(りょうはくか)が、私に上殿しろと言ったのだ』と言い、中黄門(ちゅうこうもん)の桓賢(かんけん)と言葉を交わすと、たちまち姿が見えなくなったとある」という。

『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「ここでいう梁伯夏とは、直接的には梁商(りょうしょう)。外戚の梁商は、あざなを伯夏という。ただし、なぜここに梁商の名が現れるのかは説明がつかない」。

『後漢書』(五行志〈ごぎょうし〉)に引かれた劉昭注(りゅうしょうちゅう)は、梁が魏(ぎ)の土地であり、魏が政権を取る予兆だとする。また『捜神記』の光和4(181)年の一節から、「我は梁伯、夏(か)の後なり」と解釈できる部分があることを引き、「この場合、梁伯とは伯益(はくえき)の後裔にあたる秦仲(しんちゅう)の少子である康(こう)となる」という。

【06月】
丁丑(ていちゅう)の日(29日)
黒気が起こり、霊帝の御座(ぎょざ)する温徳殿(おんとくでん)の庭に落ちる。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「『東観漢記』に、『(黒気は)天子(てんし)が御座される温明殿(おんめいでん)の庭に落ち、(その様子は)車の蓋のように隆起し、猛り逸(はや)っていた。五色で頭があり、その体長は10丈余りにも及び、形は龍に似ていた』とある」という。

本紀とは宮殿の名が違うようだが……。

【07月】
壬子(じんし)の日(?日)
霊帝が御座する玉堂(ぎょくどう)の後殿の庭に、青虹(せいこう)が現れる。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「『洛陽宮殿名(らくようきゅうでんめい)』に、『南宮には玉堂の前殿(ぜんでん)と後殿(こうでん)がある』という。『後漢書』(楊震伝〈ようしんでん〉)に付された『楊賜伝(ようしでん)』によれば、(この青虹は)嘉徳殿(かとくでん)の前に落ちたという」とある。

【?月】
このころしばしば災異が起こる。楊賜は災異を消すため、「佞臣(ねいしん)を除かれますように」と建言する。また蔡邕(さいよう)も、「腐敗した権臣たちを除かれ、清廉な人物を用いられますように」と主張した。
『正史 三国志8』の年表

【07月】
蔡邕が宦官(かんがん)らの機嫌を損ね、朔方郡(さくほうぐん)に配流される。
『正史 三国志8』の年表

【08月】
彗星(すいせい)が天市宿(てんししゅく)に現れる。
『後漢書』(霊帝紀)

【09月】
霊帝が、太尉の張顥を罷免し、太常の陳球(ちんきゅう)を太尉に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【09月】
司空の来豔が死去する。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
霊帝が、屯騎校尉(とんきこうい)の袁逢(えんほう)を司空に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】「宋皇后(そうこうごう)の廃位と憂死」
霊帝が宋皇后を廃位する。宋氏の父である執金吾(しつきんご)の宋酆(そうほう)が、投獄されて獄死した。
『後漢書』(霊帝紀)

⇒?月
はじめ中常侍(ちゅうじょうじ)の王甫(おうほ)は、法を曲げ、勃海王(ぼっかいおう)の劉悝(りゅうかい)と妃の宋氏を殺害したが、妃は宋皇后の姑(おば。父の姉妹)だった。

王甫は宋皇后が恨むことを恐れ、太中大夫(たいちゅうたいふ)の程阿(ていあ)とともに罪をでっちあげ、「宋皇后が左道(さどう)により、呪詛(じゅそ)を行っております」と上言。霊帝はこれを信じた。

光和元(178)年、霊帝はついに宋皇后を廃位する辞令を下し、その璽綬(じじゅ)を取り上げた。宋氏は自分から暴室(ぼうしつ)に行き、憂死した。位にあること8年だった。父や兄弟はみな誅殺された。

中常侍や小黄門として禁中にあった多くの者は、みな宋氏の罪なきことを哀れみ、互いに金を出し合って、廃后や宋酆父子の遺骸を引き取り、宋氏の旧来の墓地である皐門亭(こうもんてい)に納めた。
『後漢書』(宋皇后紀〈そうこうごうぎ〉)

【10月】
丙子(へいし)の日(30日)、晦(かい)
日食が起こる。
『後漢書』(霊帝紀)

【11月】
霊帝が、太尉の陳球を罷免する。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
丁巳(ていし)の日(12日)
霊帝が、光禄大夫(こうろくたいふ)の橋玄(きょうげん)を太尉に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
この年、鮮卑(せんぴ)が酒泉郡(しゅせんぐん)に侵攻した。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
この年、洛陽で馬が人を生むという事件が起こった。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「京房(けいぼう)の『易伝(えきでん)』に、『諸侯が互いに戦い合えば、その障りで馬が人を生む』とある」という。

【?月】「霊帝の売官」
この年、霊帝が西邸(せいてい)で売官を始めた。関内侯(かんだいこう)・虎賁(こほん)・羽林(うりん)ほか、売り出された官爵の価格にはそれぞれ差がつけられた。

さらに霊帝は左右の者に命じ、密かに公卿(こうけい)の官まで売らせたが、三公は1千万銭、九卿は500万銭の値がつけられていた。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「『山陽公載記(さんようこうさいき)』に、『このとき官位を売り出したが、(その価格は)二千石(せき)の官は2千万銭、400石の官は400万銭だった。(ただし官に就く者のうち)実際に徳があって官僚の選考に臨む者は、その価格を半額、あるいは3分の1とした。西園に倉庫を建て、売官によって得た銭を蓄えた』とある」という。

本紀とは価格設定に違いがあり、やや気になる。

【?月】
この年、南匈奴(なんきょうど)の単于(ぜんう)である屠特若尸逐就(ととくじゃくしちくしゅう)が死去し、息子の呼徴(こちょう)が立った。
『正史 三国志8』の年表

『後漢書』の翌年(179年)の記事に引く李賢注に、匈奴の単于の呼微(こび)という人物が出てくる。ここでいう呼徴と同じ人物だと思われるが、イマイチはっきりしなかった。

特記事項

「この年(178年)に生まれたとされる人物」
朱桓(しゅかん)張承(ちょうしょう)B ※張昭(ちょうしょう)Aの息子呂蒙(りょもう)

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