179年(漢の光和2年)の主な出来事

-179年- 己未(きび)
【漢】 光和(こうわ)2年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【春】
疫病が大流行する。霊帝は、中常侍(ちゅうじょうじ)と中謁者(ちゅうえっしゃ)を巡行させ、医薬品を配るよう命じた。
『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉)

【03月】
霊帝が、司徒(しと)の袁滂(えんぼう)を罷免し、大鴻臚(だいこうろ)の劉郃(りゅうこう)を司徒に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【03月】
乙丑(いっちゅう)の日(22日)
霊帝が、太尉(たいい)の橋玄(きょうげん)を罷免し、太中大夫(たいちゅうたいふ)の段熲(だんけい)を太尉に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【03月】
京兆(けいちょう)で地震が起こる。
『後漢書』(霊帝紀)

【03月】
霊帝が、司空(しくう)の袁逢(えんほう)を罷免し、太常(たいじょう)の張済(ちょうせい)を司空に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注(りけんちゅう)および『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「張済はあざなを元江(げんこう)といい、細陽県(さいようけん)の人」という。ということで、後で登場する董卓(とうたく)配下の張済とは別人。

【04月】
甲戌(こうじゅつ)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
辛巳(しんし)の日(8日)
中常侍の王甫(おうほ)と太尉の段熲が、投獄されて獄死する。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
司隷校尉(しれいこうい)の陽球(ようきゅう)が、王甫・段熲・淳于登(じゅんうとう)・袁赦(えんしゃ)・封トウ(ほうとう)らの悪事を奏上する。これを受けて王甫は獄死し、段熲は自殺した。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【04月】
曹節(そうせつ)らの圧力により、陽球が司隷校尉を免職になる。
『正史 三国志8』の年表

【04月】
丁酉(ていゆう)の日(24日)
霊帝が大赦を行い、党人(とうじん)に連座して禁錮(きんこ)を受けている小功(しょうこう)以下の親族について、みな禁錮を解除する。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「このとき上禄県長(じょうろくけんちょう)の和海(かかい)が霊帝に上言し、『党人の禁錮が五族にまで及ぶのは、(漢〈かん〉の)典訓と乖離(かいり)いたしております』と述べた。霊帝はこれに従っ(て、党人の小功以下の親族の連座を解除し)た」という。

『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「小功は5か月の喪。これが転じて、5か月の喪に服すべき関係の親族をいう」とある。

【04月】
東平王(とうへいおう)の劉端(りゅうたん)が薨去(こうきょ)する。
『後漢書』(霊帝紀)

【05月】
霊帝が、衛尉(えいい)の劉寛(りゅうかん)を太尉に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【07月】
使匈奴中郎将(しきょうどちゅうろうしょう)の張脩(ちょうしゅう)が、罪により投獄されて獄死する。
『後漢書』(霊帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「張脩は使匈奴中郎将。『五斗米道(ごとべいどう)』の指導者である張脩とは別人。匈奴の単于(ぜんう)を恣意的(しいてき)に廃立したため下獄死した」という。

李賢注によると「このとき張脩は、匈奴の単于である呼微(こび)を勝手に斬り、改めて羌渠(きょうきょ)を単于に立てた。ゆえに死罪となったのである」という。

【10月】
甲申(こうしん)の日(14日)
司徒の劉郃、永楽少府(えいらくしょうふ)の陳球(ちんきゅう)、衛尉の陽球、歩兵校尉(ほへいこうい)の劉納(りゅうどう)らが宦官(かんがん)の誅殺を謀る。しかし謀議が漏れたため、みな投獄されて獄死した。
『後漢書』(霊帝紀)

⇒10月
曹節の告発により、劉郃・陳球・陽球・劉納らが捕らえられて獄死する。
『正史 三国志8』の年表

【10月】
巴郡(はぐん)の板楯蛮(はんじゅんばん)が反乱を起こす。霊帝は、御史中丞(ぎょしちゅうじょう)の蕭瑗(しょうえん)に益州刺史(えきしゅうしし)をひきいて討伐にあたるよう命じたが、勝つことができなかった。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
霊帝が、光禄勲(こうろくくん)の楊賜(ようし)を司徒に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
鮮卑(せんぴ)が、幽州(ゆうしゅう)・幷州(へいしゅう)の両州に侵攻する。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
この年、河間王(かかんおう)の劉利(りゅうり)が薨去した。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
この年、洛陽(らくよう)の女子が子を産んだところ、頭がふたつで腕が4本あった。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「京房(けいぼう)の『易伝(えきでん)』に、『(主上が)ふた首で下令が一定でない。その障りで、人は両頭の子を産む』とある」という。

【?月】
この年、曹操が、卞氏(べんし)を側室に迎えた。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【?月】「龐統(ほうとう)の誕生」
この年、龐統(~214年)と仲長統(ちゅうちょうとう。~220年)が生まれた。
『正史 三国志8』の年表

【?月】「司馬懿(しばい)の誕生」
この年、司馬懿が生まれた。
『三国志全人名事典』(『中国の思想』刊行委員会編著 徳間書店)の関連略年表

特記事項

「この年(179年)に亡くなったとされる人物」
段熲(だんけい)・陳球(ちんきゅう)・劉郃(りゅうこう)

『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄著 潮書房光人社)の『三国志』年表では、(中常侍の)王甫が追加されていた。

「この年(179年)に生まれたとされる人物」
龐統(ほうとう)

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