202年(漢の建安7年)の主な出来事

-202年- 壬午(じんご)
【漢】 建安(けんあん)7年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
曹操(そうそう)が、譙(しょう)で布告を出す。「義兵を挙げて以来、戦死して跡継ぎのない将兵は、親戚を探し出して跡継ぎとせよ。また田地を授けて耕牛を給付し、教師を置いて教育を受ける機会を与えよ。跡継ぎのいる者には廟(びょう)を建ててやり、その先人を祭らせよ」というもの。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

【?月】
曹操が浚儀(しゅんぎ)に赴き、睢陽渠(すいようきょ。運河の名)を修理させる。さらに使者を遣わし、太牢(たいろう。牛・羊・豕〈し。ブタ〉)の犠牲(いけにえ)を捧げて橋玄(きょうげん)を祭り、軍を官渡(かんと)に進めた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【05月】「袁紹(えんしょう)の死」
袁紹が病を発して血を吐き、死去する。末子の袁尚(えんしょう)が代わり、その兄の袁譚(えんたん)は車騎将軍(しゃきしょうぐん)を自称して、黎陽(れいよう)に駐屯した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒05月
庚戌(こうじゅつ)の日(21日)
袁紹が死去する。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)

【05月】
于寘国(うてんこく)の使者が漢(かん)に来朝し、よく訓練された象を献ずる。
『後漢書』(献帝紀)

【09月】
曹操が、袁譚と袁尚を討伐するため連戦する。ふたりは曹操にたびたび敗れ、退却して守りを固めた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒09月
この9月から翌年(203年)2月に至るまで、袁譚と袁尚は、黎陽の城下で曹操と戦ったが敗北。退却して籠城した。これを曹操が包囲しようとしたため、ふたりは夜に紛れて逃亡した。
『三国志』(魏書・袁紹伝)

【?月】「呉氏(ごし)の死」
この年、孫権(そんけん)の生母である呉氏が死去した。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

⇒?月
この年、孫権らの生母である呉氏が死去した。
『三国志』(呉書・孫堅呉夫人伝〈そんけんごふじんでん〉)

『志林(しりん)』…孫権の生母である呉夫人は、この年(202年)ではなく、建安12(207)年に亡くなったという見解。

【?月】
この年、越嶲郡(えっすいぐん)の男子が、女子に変化するという事件が起こった。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】
この年、曹操配下の鍾繇(しょうよう)が、平陽(へいよう)で南匈奴(なんきょうど)の単于(ぜんう)の呼厨泉(こちゅうせん。呼廚泉)を降した。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

特記事項

「この年(202年)に亡くなったとされる人物」
袁紹(えんしょう)呉氏(ごし)C? ※孫堅(そんけん)の妻

「この年(202年)に生まれたとされる人物」
姜維(きょうい)

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