244年(魏の正始5年・蜀の延熙7年・呉の赤烏7年)の主な出来事

-244年- 甲子(こうし)
【魏】 正始(せいし)5年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉)
【蜀】 延熙(えんき)7年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 赤烏(せきう)7年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
呉(ご)の孫権が上大将軍(じょうだいしょうぐん)の陸遜(りくそん)を丞相(じょうしょう)に任ずる。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【02月】
魏(ぎ)の曹芳が大将軍(だいしょうぐん)の曹爽(そうそう)に詔(みことのり)を下し、蜀(しょく)の討伐を命ずる。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)

⇒閏03月
魏の大将軍の曹爽と夏侯玄(かこうげん)らが漢中に向かう。これに対して蜀の鎮北大将軍(ちんぼくだいしょうぐん)の王平(おうへい)が興勢(こうせい)で抵抗し、大将軍の費禕(ひい)が諸軍を統率して救援に駆けつけたため、魏軍は撤退した。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

⇒閏03月
蜀の劉禅が費禕を漢中の救援に遣わし、魏は大きな損害を受けて軍を退く。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【04月】
蜀の安平王(あんぺいおう)の劉理が薨去(こうきょ)する。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【04月】
丙辰(へいしん)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。
『三国志』(魏書・斉王紀)

ここは干支(かんし)を補っておく。

【05月】
癸巳(きし)の日(8日)
魏の曹芳が『尚書(しょうしょ)』を終わりまで学び、太常(たいじょう)に命じて太牢(たいろう。牛・羊・豕〈イノコ〉)の犠牲(いけにえ)を捧げさせ、辟雍(へきよう。天子〈てんし〉が建てた太学〈たいがく〉)で孔子(こうし)を祭らせ、顔淵(がんえん)も併せて祭る。

また、太傅(たいふ。司馬懿〈しばい〉)と大将軍(曹爽)および講義をした侍講者に、それぞれ格差をつけて品物を下賜した。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【05月】
丙午(へいご)の日(21日)
魏の大将軍の曹爽が軍をひきいて帰還する。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【08月】
魏の秦王(しんおう)の曹詢(そうしゅん)が薨去する。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【09月】
蜀の費禕が成都(せいと)に帰還する。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【09月】
鮮卑族(せんぴぞく)が魏に内属する。このため曹芳は遼東属国(りょうとうぞっこく)を設置したうえ昌黎県(しょうれいけん)を新設して住まわせた。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【秋】
呉の孫権のもとに「宛陵(えんりょう)で嘉禾(かか。穂がたくさん付いた、おめでたい穀物)が生えた」との報告が届く。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【11月】
癸卯(きぼう)の日(21日)
魏の曹芳が詔を下し、亡き尚書令(しょうしょれい)の荀攸(じゅんゆう)を太祖(たいそ。曹操〈そうそう〉)の霊廟(れいびょう)の堂前の広場に祭る。
『三国志』(魏書・斉王紀)

裴松之(はいしょうし)の考え…魏王朝の霊廟に合祀された功臣たちについて、荀彧(じゅんいく)が外されていることの考察や郭嘉(かくか)と許褚(きょちょ)が入っていないことについての意見など。

【11月】
己酉(きゆう)の日(27日)
魏の曹芳が秦国(しんこく)を京兆郡(けいちょうぐん)に戻す。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【12月】
魏の司空(しくう)の崔林(さいりん)が死去する。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【?月】
この年、魏の曹芳が曹髦(そうぼう)を郯県(たんけん)の高貴郷公(こうききょうこう)に封じた。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀〈こうききょうこうぎ〉)

【?月】
この年、呉の歩騭(ほしつ)と朱然(しゅぜん)らが孫権にそれぞれ上疏し、「蜀に不穏な動きが見られますので寝返りに備えられますように」と述べる。しかし、現状を見極めた孫権は聞き入れず、実際のところも蜀にそうした企てはなかった。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【?月】
この年、孫権が詔を下す。「指揮官や将軍が逃亡した際、その妻子を処刑する」という定めについて触れ、「今後は妻子を連座させ死刑に処してはならない」と命ずるもの。
『三国志』(呉書・呉主伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『江表伝(こうひょうでん)』

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正史年表 240年代
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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