【姓名】 曹詢(そうしゅん) 【あざな】 ?
【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)
【生没】 231~244年(14歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第107回で初登場。
【正史】 登場人物。
魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の養子、秦王(しんおう)
実の父母ともに不詳。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』によると、「同じく曹叡の養子の曹芳(そうほう)ともども、任城王(じんじょうおう)の曹楷(そうかい)の息子」ともいう。
曹詢は235年に秦王に封ぜられ、244年に薨去(こうきょ)した。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。
『三国志』(魏書・明帝紀〈めいていぎ〉)の裴松之注に引く孫盛の『魏氏春秋』によると、「曹詢は曹芳より1歳年上だった」ということです。
もしふたりとも曹楷の息子だったのなら、年下の曹芳のほうを皇太子に立てているのが気になります。実母の身分に差があったのかもしれませんけど……。
『三国志』(魏書・斉王紀)の冒頭には以下のようにあります。
「斉王は諱(いみな)を芳、あざなを蘭卿(らんけい)という。明帝(曹叡)は子がなかったので、斉王と秦王(曹詢)を養育していた。宮中の事柄は秘密に属するため、誰も彼らの経歴を知る者はいなかった」
ただ、曹叡は息子を授からなかったわけではなく、曹冏(そうけい。?~226年)・曹穆(そうぼく。?~229年)・曹殷(そういん。231~232年)という3人の息子たちは、みな早くに亡くなってしまったのです。
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