劉諶(りゅうしん)

【姓名】 劉諶(りゅうしん) 【あざな】 ?

【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん)

【生没】 ?~263年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第118回で初登場。
【正史】 登場人物。

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蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の息子、北地王(ほくちおう)

父は劉禅だが、母は不詳。

劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)はみな兄で、劉恂(りゅうじゅん)と劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)は弟。ほかに姉妹が3人はいたことがうかがえる。同母兄弟、同母姉妹なのかはイマイチはっきりしない。

劉諶は、259年6月に北地王に封ぜられた。その後、263年に魏軍(ぎぐん)が成都(せいと)に迫った際、劉禅に抗戦を訴えたが容れられず、妻子を殺したあと自殺した。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く習鑿歯(しゅうさくし)の『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』には以下のようにありました。

「まさに劉禅が譙周(しょうしゅう)の(魏に降伏するという)献策に従おうとしたとき、劉諶は怒って言った。『もしわが道が窮まり、力(ちから)屈して敗北が必至になったなら、われら父子君臣、城を背にして一戦交えるべきです。ともに国家に殉じ、(地下の)先帝(劉備〈りゅうび〉)にまみえましょう』」

「しかし劉禅は聞き入れず、璽綬(じじゅ)を(魏の鄧艾〈とうがい〉に)送り届けて降伏した。劉諶は昭烈皇帝(しょうれつこうてい。劉備)の廟(びょう)へ行って慟哭(どうこく)し、先に妻子を殺してから自殺した。側近たちで涙を流さない者はいなかった」

仮に劉禅が徹底抗戦した場合、蜀の民にはどう映るのだろうかとは思いますが――。祖父や功臣が築き上げた国の滅亡にあたり、劉諶の態度は潔いものに見えますね。
「蜀の劉氏」収録人物一覧
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蜀の劉氏 人物データ
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