韋曜(いよう。韋昭〈いしょう〉)

【姓名】 韋曜(いよう) 【あざな】 弘嗣(こうし)

【原籍】 呉郡(ごぐん)雲陽県(うんようけん)

【生没】 204~273年(70歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・韋曜伝』あり。

『呉書』(『三国志』とは別の書物)完成の夢かなわず

父母ともに不詳。韋隆(いりゅう)という息子がいた。

韋曜は若いころから学問を好み、優れた文章を書くことができた。「丞相掾(じょうしょうのえん)」を経て「西安県令(せいあんけんのれい)」に任ぜられた後、中央へ戻って「尚書郎(しょうしょろう)」となり、やがて「太子中庶子(たいしちゅうしょし)」に昇進した。

裴松之(はいしょうし)は「韋曜はもとの名を『昭(しょう。韋昭)』といったが、晋(しん)の史官が(司馬昭〈しばしょう〉の)諱(いみな)を避けて『韋曜』に書き改めた」とする。だが『三国志』には、胡昭(こしょう)・董昭(とうしょう)・郝昭(かくしょう)・孫昭(そんしょう)・張昭(ちょうしょう)といった、「昭」の名を持つ人物が何人も登場している。

このころ蔡穎(さいえい)も東宮(とうぐう)におり、韋曜らとともに皇太子(こうたいし。242~250年)の孫和(そんか)に仕えていた。

蔡穎は博奕(ばくえき。ばくち)を好んだが、孫和はそのような遊びは無益なものだとし、韋曜に命じて博奕について論ずる文章を作らせた。

韋曜が「博奕論」を奉呈したことについては、孫和の個別記事を参照。

250年、「二宮の変(孫和派と孫霸〈そんは〉派による確執)」の末に孫和が「皇太子」を廃位された後、韋曜は「黄門侍郎(こうもんじろう)」に転ずる。

252年、孫亮(そんりょう)が帝位を継ぐと、韋曜は実権を握った諸葛恪(しょかつかく)の推挙を受けて「太史令(たいしれい)」に任ぜられ、華覈(かかく)や薛瑩(せつえい)らとともに『呉書』の編纂(へんさん)にあたった。

258年、孫休(そんきゅう)が帝位を継ぐと、韋曜は「中書郎(ちゅうしょろう)・博士祭酒(はくしさいしゅ)」に任ぜられ、詔(みことのり)を受けて数多くの書物の校訂を担当する。

さらに孫休は彼をそば近くに置き、「侍講(じこう)」の任に就けたいと考える。しかし、左将軍(さしょうぐん)の張布(ちょうふ)が強硬に反対したため、この件は沙汰やみになった。

264年、孫晧(そんこう)が帝位を継ぐと、韋曜は「中書僕射(ちゅうしょぼくや)」に昇進し「高陵亭侯(こうりょうていこう)」に封ぜられる。また、形式上の「侍中(じちゅう)」を務めながら、長く「左国史(さこくし)」も兼ねていた。

このころ孫晧のご機嫌を取るかのように、各地から瑞祥(ずいしょう)が表れたとの上言が相次ぐ。孫晧は韋曜に見解を尋ねたが、彼はでっちあげにすぎないと答える。

孫晧が父の孫和の本紀(ほんぎ)を『呉書』に立てたがった際にも、韋曜は孫和が帝位に登っていないことを理由に、(本紀ではなく)「伝」とすべきだと主張した。

こうしたやり取りを重ねるうち、韋曜は孫晧に叱責されることが増えたので、老齢のため「侍中」と「左国史」の官職を辞したいと願い出る。そして自身は編纂中の『呉書』の完成を目指そうとしたが、孫晧は辞職を許可しなかった。

273年、孫晧の寵愛がすっかり衰えた韋曜は、ついに捕縛のうえ投獄される。

韋曜は獄吏を通じて上言し、原稿の完成後、自宅に保管したままになっていた『洞記(どうき)』『官職訓(かんしょくくん)』『弁釈名(べんしゃくみょう)』といった自著を献上することで、罪が許されるよう期待した。

ところが、孫晧はそれらの原稿が古く汚れていたことに難癖をつけ、かえって彼を詰問する。

右国史(ゆうこくし)の華覈は上疏を繰り返して助命を求めたが、孫晧は聴き入れない。とうとう韋曜は誅殺され、その家族も零陵(れいりょう)へ強制移住させられた。このとき韋曜は70歳だったという。

管理人「かぶらがわ」より

対象が当代の王朝なのか前代の王朝なのかによって大きく意味合いは変わるものの、一時代を築いた王朝の歴史を書き残しておくことの重要性にいち早く気づき、それを実行に移したという点において、私は古代中国の人々に深い敬意を抱いています。

確かに当該の王朝が存在する間に書かれた自国史は、おしなべて歴代の君主の業績を誇張したものになりますが、それでも当時の様々な動きを知るための貴重な資料と言えます。

ここで採り上げた『呉書』が完成をみなかったことや、蜀(しょく)に同規模の史書がなかったことは返すがえすも残念でした。

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