丁奉(ていほう)

【姓名】 丁奉(ていほう) 【あざな】 承淵(しょうえん)

【原籍】 廬江郡(ろこうぐん)安豊県(あんぽうけん)

【生没】 ?~271年(?歳)

【吉川】 第149話で初登場。
【演義】 第038回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・丁奉伝』あり。

孫氏(そんし)4代(孫権〈そんけん〉・孫亮〈そんりょう〉・孫休〈そんきゅう〉・孫晧〈そんこう〉)に仕えた宿将

父母ともに不詳。丁封(ていほう)は弟。

丁奉は若くして勇猛さを認められ、甘寧(かんねい)・陸遜(りくそん)・潘璋(はんしょう)らの下で部隊長を務める。たびたび討伐に付き従ったが、敵の大将を斬って軍旗を奪い、身に多くの傷を受けながらも軍中第一の功を立て「偏将軍(へんしょうぐん)」まで昇った。

252年4月、孫亮が帝位を継ぐと、丁奉は「冠軍将軍(かんぐんしょうぐん)」に任ぜられ「都亭侯(とていこう)」に封ぜられる。

同年12月、魏(ぎ)の諸葛誕(しょかつたん)や胡遵(こじゅん)らが東興(とうこう)に侵攻してくると、呉は諸葛恪(しょかつかく)が軍勢をひきいて防戦に向かう。

呉の部将たちは、敵前に上陸するだけで追い払うことができると述べたが、ひとり丁奉は、魏軍が許昌(きょしょう)や洛陽(らくよう)の軍勢を挙げてきたことから、この侵攻が見せかけのものではないと判断する。

そこで配下の3千人をひきいて徐塘(じょとう)に急ぎ、魏軍の不意を突く。ちょうど敵が混乱したところへ味方の呂拠(りょきょ)らも到着したので、魏軍を壊走させることができた。丁奉は「滅寇将軍(めっこうしょうぐん)」に昇進し「都郷侯(ときょうこう)」に爵位が進む。

255年、魏の文欽(ぶんきん)が呉への投降を願い出ると、丁奉は「虎威将軍(こいしょうぐん)」に任ぜられ、孫峻(そんしゅん)に付き従い寿春(じゅしゅん)で文欽と合流しようとする。

このとき文欽を追ってきた魏軍と高亭(こうてい)で戦ったが、丁奉は敵陣に突入して数百の首級を挙げ、軍器を鹵獲(ろかく)。功により「安豊侯」に爵位が進んだ。

257年、魏の諸葛誕が寿春で挙兵し、呉への投降を申し入れる。しかし、すでに寿春は魏軍に包囲されつつあった。

呉は朱異(しゅい)や唐咨(とうし)らを救援に向かわせ、さらに丁奉と黎斐(れいひ)も魏軍の包囲を切り崩すよう命を受ける。丁奉は先鋒となり黎漿(れいしょう)に進駐。力戦して功を立てたため「左将軍(さしょうぐん)」に任ぜられた。

翌258年10月、孫休が帝位を継ぐと、丁奉は張布(ちょうふ)とともに孫綝(そんりん)の誅殺を計った。丁奉は孫休から計画を打ち明けられると、急いで事を起こさず臘会(ろうかい。祖先および百神の祭祀)の日を待つよう勧めて容れられた。

同年12月、孫綝の誅殺が成功すると、丁奉は「大将軍(だいしょうぐん)」に昇進し「左右都護(さゆうとご)?」の官位を加えられた。

260年、丁奉は「仮節(かせつ)」となり「徐州牧(じょしゅうのぼく)」を兼ねる。

263年5月、魏が蜀(しょく)討伐の大軍を起こすと、丁奉は諸軍をひきいて寿春に向かい、魏を牽制(けんせい)することで蜀を援護しようとした。だが同年11月、劉禅(りゅうぜん)が魏に降伏してしまったため丁奉も寿春から引き揚げた。

翌264年、孫休が崩ずると丁奉は丞相(じょうしょう)の濮陽興(ぼくようこう)らと計り、万イク(ばんいく)の進言を容れ孫晧を帝位に即ける。この功により「右大司馬(ゆうだいしば)・左軍師(さぐんし)」に昇進した。

268年、孫晧の命を受け、丁奉は諸葛靚(しょかつせい)とともに晋(しん)の合肥(ごうひ)を攻める。このとき丁奉は一計を案じ、晋将の石苞(せきほう)に関する偽手紙を送り、敵の内部で疑心を起こさせ、石苞を中央への召還に追い込んだ。

翌269年、丁奉は徐塘を改修したのち晋の穀陽(こくよう)を攻める。ところが、穀陽の住民は事前に攻撃を察知し城から逃げ出していたので、丁奉は何も得ることができなかった。

271年、丁奉が死去した。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、丁奉は地位が上がるに従い驕(おご)りが目立つようになったといいます。このことを非難する者が出たため、丁奉の死後、孫晧は以前の軍事における失敗を採り上げ、彼の遺族を臨川(りんせん)へ強制移住させました。孫権の時代から仕えた宿将の遺族でも、孫晧には厚遇されなかったようですね。

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