張繡(ちょうしゅう)

【姓名】 張繡(ちょうしゅう) 【あざな】 ?

【原籍】 武威郡(ぶいぐん)祖厲県(それいけん)

【生没】 ?~207年(?歳)

【吉川】 第063話で初登場。
【演義】 第016回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・張繡伝』あり。

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曹操(そうそう)にひと泡吹かせるも、結局は降伏し列侯(れっこう)に

父母ともに不詳。息子の張泉(ちょうせん)は跡継ぎ。ほかに曹操の息子の曹均(そうきん)に嫁いだ娘もいた。

張繡は驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の張済(ちょうせい)の族子(おい。同族内で子の世代にあたる者)にあたる。

186年?、辺章(へんしょう)と韓遂(かんすい)が涼州(りょうしゅう)で反乱を起こしたとき、金城(きんじょう)の麴勝(きくしょう)が祖厲県長(それいけんちょう)の劉雋(りゅうしゅん)を襲撃し殺害した。

張繡は県吏を務めていたが、隙を狙い麴勝を暗殺。郡中の人々は義にかなった行為として称賛した。このことから張繡のもとに若者が集まるようになり、彼は村の顔役(かおやく)になっていく。

192年4月、董卓(とうたく)が長安(ちょうあん)で殺害される。

同年6月、張済が李傕(りかく)や郭汜(かくし)らとともに長安を陥す。彼らは董卓の殺害を主導した王允(おういん)を一族皆殺しとし、呂布(りょふ)も攻め破った。

同年9月、献帝(けんてい)を脅迫する形で、李傕は車騎将軍(しゃきしょうぐん)・池陽侯(ちようこう)に、郭汜は後将軍(こうしょうぐん)・美陽侯(びようこう)に、樊稠(はんちゅう)は右将軍(ゆうしょうぐん)・万年侯(ばんねんこう)に、張済も鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)・平陽侯(へいようこう)に、それぞれ昇る。

張繡も張済に付き従い軍功を立てていたため、建忠将軍(けんちゅうしょうぐん)に昇進し宣威侯(せんいこう)に封ぜられた。

195年7月、献帝が洛陽(らくよう)への還幸を決定。先の5月に李傕が自ら大司馬(だいしば)に就任したのに続き、ここで郭汜も自ら車騎将軍に就任。張済も驃騎将軍に昇進した。

翌196年、張済は兵糧を確保すべく駐屯していた弘農(こうのう)から南下。荊州(けいしゅう)へ入り南陽郡(なんようぐん)の穣城(じょうじょう)を攻めたものの、流れ矢が当たって亡くなった。張繡は張済の軍勢を収めて宛(えん)に駐屯し、のち劉表(りゅうひょう)と合流した。

翌197年1月、曹操が南征し淯水(いくすい)に軍営を置いたとき、張繡らは軍勢を引き連れて降伏。だが、曹操が亡き張済の妻を側妾(そくしょう)にしたため恨みを抱くようになる。

曹操は張繡の様子を聞き知ると、密かに彼を殺害する計画を立てた。しかし、この計画が事前に漏れたので張繡が曹操を急襲する。ここで曹操軍を撃破し、曹操の息子の曹昂(そうこう)と甥の曹安民(そうあんみん)を戦死に追いやった。張繡は引き返して穣城を守り、連年にわたる曹操の攻撃を退け続けた。

199年11月、曹操が袁紹(えんしょう)と官渡(かんと)で対峙していたとき、張繡は配下の賈詡(かく)の計に従い、再び軍勢をひきいて降伏した。曹操は張繡の到着を喜んで歓迎の宴会を催し、彼の娘を息子の曹均の嫁として迎えたうえ揚武将軍(ようぶしょうぐん)に任じた。

翌200年、張繡は官渡の戦いで奮戦し手柄を立て、破羌将軍(はきょうしょうぐん)に昇進した。

205年1月、曹操に付き従い南皮(なんぴ)で袁譚(えんたん)を撃破すると、加増され2千戸を領することになった。この当時、天下の戸数や人口が減り、最盛期の10分の1にまでなっていた。曹操配下の諸将には領邑(りょうゆう)が1千戸に満たない者もいたが、張繡の領邑は特に多かった。

207年、曹操の烏丸(うがん)討伐に付き従い道中で死去。定侯(ていこう)と諡(おくりな)され、息子の張泉が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く傅玄(ふげん)の『傅子(ふし)』によると、張繡が重用していた中に胡車児(こしゃじ)という者がいて、その武勇は配下第一だったということです。

すると曹操が胡車児の勇猛さに目を付け、手ずから黄金を与えます。この話を聞いた張繡は、曹操が側近を使い自分を刺殺させようとしているのではないかと疑った結果、背いたのだという話になっていました。

また、本伝の裴松之注に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書(ごしょ)』には以下のようにあります。

最初に曹操に降伏したあと張繡は賈詡の計を容れ、こう願い出ます。

「軍勢を大道へ移動させたいので、殿の営内を通過することをお許しください」

さらに張繡はこうも言います。

「車が少ないわりに輜重(しちょう)は重いので、どうか兵士たちが鎧を着けることをお許しください」

曹操は張繡を信用し許可しました。そこで張繡は配下の兵士に完全武装させ、曹操の軍営を急襲。曹操は備えをしていなかったため敗北を喫してしまったのだと。

このほか本伝の裴松之注に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』には、曹丕(そうひ)にまつわる話も載せられており、曹丕が「五官将(ごかんしょう。五官中郎将〈ごかんちゅうろうしょう〉)」だったころ(211~217年)、たびたび張繡が頼みごとをしに来たそうです。

曹丕は腹を立て、こう言います。

「お前は兄(曹昂)を殺したくせに、どうして平気な顔をして私に会いに来ることができるのだ!」

そのあと、張繡は不安を感じて自殺したのだと。ただ、これは本伝の話とまったく違いますし時代とも合わないですよね。ホントのところはどうだったのでしょうか?
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人物データ 群雄諸侯
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