和洽(かこう)

【姓名】 和洽(かこう) 【あざな】 陽士(ようし)

【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)西平県(せいへいけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第206話で初登場。
【演義】 第066回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・和洽伝』あり。

度を越えた節倹は、むしろ失うところが多い

父母ともに不詳。息子の和离(かり)は跡継ぎで、和逌(かゆう)も同じく息子。

和洽は孝廉(こうれん)に推挙され、大将軍(だいしょうぐん。184~189年)の何進(かしん)に招聘(しょうへい)されたが、いずれにも応じなかった。

191年、袁紹(えんしょう)は韓馥(かんふく)から冀州(きしゅう)の実権を奪うと、使者を遣り汝南の士大夫を迎え入れようとする。

しかし和洽だけは、冀州が四方から攻撃されやすい要地であり、袁紹では大丈夫だと言いきれないとみて、遠大な志は持っていないものの、士人を愛する劉表(りゅうひょう)のほうが身を寄せやすく、その地盤である荊州(けいしゅう)も険阻だと考えた。そこで親戚や友人とともに南へ向かい劉表に従う。劉表は上客の礼をもって厚遇した。

それでも和洽は、暗愚な君主に近づきすぎてはならず、長くとどまっていると危ないと感ずる。こうしてさらに南の武陵(ぶりょう)へ移った。

208年、曹操(そうそう)が荊州を平定すると、和洽は召されて「丞相掾属(じょうしょうのえんぞく)」となる。

このころ毛玠(もうかい)と崔琰(さいえん)が、忠義と清廉さを旨として政務を担当。ふたりは官吏の選抜にあたり、節倹を第一に尊重していた。

和洽は、中庸を越える節倹や素朴さについて、自己の身の処し方としてはよいが、節倹によって万物を正そうとすると、失うところも多いと思うと述べ、教化を打ち立てて風俗を判断する場合、中庸を重んじ、それを受け継いでいくべきだと主張した。

213年、魏が建国された後、和洽は「侍中(じちゅう)」となる。

215年、曹操が漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)を降すと、和洽は時機を見て軍を引き揚げ、住民も移住させ、守備兵を置くための費用を節約すべきだと主張した。これはすぐに容れられなかったものの、結局は住民を移住させ(219年に)漢中を放棄することになった。

和洽は外に出て「郎中令(ろうちゅうれい)」となる。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと、「光禄勲(こうろくくん)」に昇進して「安城亭侯(あんじょうていこう)」に封ぜられた。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと「西陵郷侯(せいりょうきょうこう)」に爵位が進む。封邑(ほうゆう)は200戸だった。

太和(たいわ)年間(227~233年)、散騎常侍(さんきじょうじ)の高堂隆(こうどうりゅう)から上奏がある。

「季節の風が吹かず(農業に)荒廃の気配がございます。官吏の中に職務に励まない者がいるため、自然の秩序が失われているに違いありません」

曹叡は謙虚に自己の責任と受け止め、詔(みことのり)を下して広く意見を求めた。

このとき和洽は農業の重要性を説き、役務に困窮した民が嘆いていると訴える。そして異変を消し去るには節倹が一番だと述べ、目に余る役務を取りやめ、軍事の備蓄を行うよう勧めた。

のち和洽は「太常(たいじょう)」に転じたが、清貧を心がけ質素な暮らしを送り、田宅を売り生計を立てるほどだった。曹叡はその暮らしぶりを聞き、穀物と絹帛(けんぱく)を余分に賜与したという。

和洽が死去(時期は不明)すると「簡侯(かんこう)」と諡(おくりな)され、息子の和离が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

和洽が重視した中庸は、現代においても通用するものだと思います。

当時の士大夫の中には故意に衣服を汚したり、立派な車や衣装をしまい込んだりする人がいたり、朝廷の大官にも弁当を持参して出勤する人がいたのだとか。これでは節倹というより、ただの偽善ですよね……。

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