何進(かしん) ※あざなは遂高(すいこう)

【姓名】 何進(かしん) 【あざな】 遂高(すいこう)

【原籍】 南陽郡(なんようぐん)宛県(えんけん)

【生没】 ?~189年(?歳)

【吉川】 第017話で初登場。
【演義】 第001回で初登場。
【正史】 登場人物。

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妹のおかげで大将軍(だいしょうぐん)に昇るも、宦官(かんがん)誅滅に失敗して死す

父は何真(かしん)だが、母は不詳。何苗(かびょう)は異母弟で、何氏(かし。霊帝〈れいてい〉の皇后)は異母妹。息子がふたりはいたことがうかがえる。

何進の家は、もともと屠殺(とさつ)を生業としていた。父の死後、何進は宦官の手引きで妹の何氏を後宮に入れた。

そのうち何氏は霊帝の寵愛を受け、やがて劉辯(りゅうべん。後の少帝〈しょうてい〉)を生み、180年12月には皇后に立てられた。妹のおかげで、何進も霊帝から目をかけられて出世した。

184年3月、黄巾(こうきん)の乱が勃発。何進は大将軍に任ぜられ、兵をひきいて洛陽(らくよう)の都亭(とてい)に駐屯した。

189年4月、霊帝が崩御(ほうぎょ)し、劉辯(少帝)が即位すると、何氏が皇太后として臨朝した。

またこの月、何進は上軍校尉(じょうぐんこうい)の蹇碩(けんせき)を獄死させた。

同年8月、何進は宦官誅滅を計るも、事が漏れ、中常侍(ちゅうじょうじ)の張譲(ちょうじょう)や段珪(だんけい)らに謀殺された。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』には何進の伝が立てられていないため、その事績も断片的なものしか拾えませんでした。一方で范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』には、彼の伝が立てられています。

『三国志』には、何進に招かれた人物として多くの名が挙げられていました。

王匡(おうきょう)・伍孚(ごふ)・袁紹(えんしょう)・劉表(りゅうひょう)・蒯越(かいえつ)・荀攸(じゅんゆう)・孔融(こうゆう)・鮑信(ほうしん)・鄭泰(ていたい)・華歆(かきん)といった面々で、陳寔(ちんしょく)や張紘(ちょうこう)には断られたようです。

何進が袁紹らと宦官の誅滅を計り、これに難色を示した何太后に、圧力をかけるべく董卓を都に呼び寄せようとしたとき、鄭泰や陳琳(ちんりん)などが反対を唱えました。

この董卓を呼び寄せたことが破滅の決め手になりましたが、そもそも何進の器では、世の混乱を収めることは難しそう……。

それでも董卓が上洛しなければ、その後の諸侯の勢力分布や淘汰(とうた)の過程は、まったく違ったものになっていたでしょう。

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