218年(漢の建安23年)の主な出来事

-218年- 戊戌(ぼじゅつ)
【漢】 建安(けんあん)23年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】「吉本(きつほん)らの反乱」
大医令(たいいれい)の吉本が、少府(しょうふ)の耿紀(こうき)、司直(しちょく)の韋晃(いこう)らと共謀して反乱を起こし、許(きょ)を攻めて丞相長史(じょうしょうちょうし)の王必(おうひつ)の陣営に火を放つ。

王必は、潁川(えいせん)の典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)の厳匡(げんきょう)とともに討伐にあたり、反乱者らを斬った。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

『魏武故事(ぎぶこじ)』…王必の働きへの布令。

『三輔決録注(さんぽけつろくちゅう)』…このときの反乱について。

『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』…耿紀と韋晃の最期について。

『山陽公載記(さんようこうさいき)』…曹操(そうそう)が王必の死を聞いた後、漢(かん)の朝廷の百官を鄴(ぎょう)へ召し寄せ、反乱が起こった際、消火に加わったかどうかを問いただした話。

⇒01月
甲子(こうし)の日(6日)
少府の耿紀と丞相司直(じょうしょうしちょく)の韋晃が挙兵し、曹操を討とうとしたものの果たせず、その三族が皆殺しにされる。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)

李賢注(りけんちゅう)によると「『三輔決録注』に『このとき京兆尹(けいちょういん)の全禕(ぜんい)、あざなを徳偉(とくい)という者があった。彼は代々漢の臣であったことから発憤して、耿紀や韋晃らとともに天子(てんし)を擁立し、魏(ぎ)を攻め、南方の劉備(りゅうび)を支援しようとした。この謀議は失敗し、(曹操は全禕らの)三族を皆殺しにした』とある」という。

なお、『三国志』などでは金禕(きんい)とある。訳者は「上杉本(うえすぎぼん)は金に作るが、中華書局本(ちゅうかしょきょくぼん)により全に改める」としている。しかし『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『三輔決録注』によると、「金禕は武陵太守(ぶりょうたいしゅ)を務めた金旋(きんせん)の息子」だという。それならば全禕とするのはおかしいと思われ、ここはよくわからなかった。

【03月】
曹操配下の曹洪(そうこう)が、劉備配下の呉蘭(ごらん)を討ち破り、任夔(じんき)らを斬る。張飛(ちょうひ)と馬超(ばちょう)は漢中(かんちゅう)に逃げた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【03月】
陰平(いんぺい)の氐族(ていぞく)の強端(きょうたん)が、劉備配下の呉蘭を斬り、その首を曹操に送る。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【03月】
彗星(すいせい)が東の空に現れる。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると「杜預(とよ)が『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』(哀公〈あいこう〉経13年)に注を付けて、『明け方には、あらゆる星がみな沈んでしまうので、そこに彗星が現れても、二十八宿のどこに現れたとは言わないのである』としている」という。

杜預については、慣例として「どよ」と読まれるとのこと。

【04月】
代郡(だいぐん)と上谷(じょうこく)の烏丸族(うがんぞく)と、無臣氐(ぶしんてい)らが反乱を起こす。曹操は、息子で鄢陵侯(えんりょうこう)の曹彰(そうしょう)を討伐に遣わし、これを討ち破った。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒04月
曹彰が、代郡の烏丸を討伐して勝利を収める。これを受け、様子を見ていた鮮卑(せんぴ)の大人(たいじん。部族の有力者)の軻比能(かひのう)が曹操に降り、北方が安定した。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【04月】
曹操が布令を出す。昨年(217年)冬の疫病と地方で起こった戦争について触れ、「70歳以上で夫も子もいない婦人、12歳以下で父母や兄弟のいない子ども、目が見えなかったり、手足が不自由で妻子父兄や財産のない者については、生涯、生活の面倒を見る」というもの。

また「この給付を受ける幼年者は12歳で給付を打ち切る。貧困のため自活できない者には、家族の人数に従って給付する。年老いて扶養を受けなければならない者のうち、90歳以上の者がいる家については、一家にひとり賦役(ふえき)を免除する」とした。
『三国志』(魏書・武帝紀)の裴松之注に引く『魏書』

【06月】
曹操が布令を出す。古代の埋葬は、必ず地味の痩せた土地を選んで行われたことを挙げ、「公卿(こうけい)や将軍のうち、功績ある者の墓を寿陵(生前に造る陵墓)に随従させるべきだ」とし、「それらを十分に包含しうるよう、墓域を広大にせよ」というもの。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【07月】
曹操が兵の観閲を行い、そのまま劉備討伐のため西へ向かう。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【09月】
曹操が長安(ちょうあん)に到着する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒?月
劉備が陽平関(ようへいかん)で、曹操配下の夏侯淵(かこうえん)・張郃(ちょうこう)・徐晃(じょこう)らと対峙(たいじ)する。
『正史 三国志8』の年表

⇒09月
曹操が、自ら軍をひきいて長安まで進出する。
『正史 三国志8』の年表

⇒09月
曹操が長安に到着する。このとき劉備は陽平関で、曹操配下の夏侯淵・張郃と対峙していた。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【10月】
宛(えん)の守将の侯音(こうおん)らが、曹操に背いて反乱を起こす。彼らは南陽太守(なんようたいしゅ)を捕らえ、官民を強制的に支配して宛に立て籠もった。

これ以前、曹操配下の曹仁(そうじん)が、劉備配下の関羽(かんう)を討ち破って樊城(はんじょう)に駐屯していた。曹操は曹仁に宛の包囲を命じた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

ここで「『曹瞞伝(そうまんでん)』にいう」として、「このころ南陽のあたりでは役務に苦しんでいた。そのため侯音は、太守の東里袞(とうりこん)を捕らえて官民とともに反乱を起こし、関羽と手を結んだ」とある。

【?月】
この年、孫氏(孫権)が、(会稽郡〈かいけいぐん〉の太末県〈たいばつけん〉を)分割して遂昌県(すいしょうけん)を設置した。
『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)

特記事項

「この年(218年)に亡くなったとされる人物」
王烈(おうれつ)楽進(がくしん)曹子整(そうしせい)孫賁(そんほん)?張承(ちょうしょう)A ※あざなは公先(こうせん)陳氏(ちんし)A ※曹操(そうそう)の妻

「この年(218年)に生まれたとされる人物」
虞汜(ぐし)?

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